東京オルタナ写真部では「プリントスタディ」という批評会を開催しています。ある作品や展覧会を取り上げて、感想や批評を述べ合いディスカッションする批評のワークショップです。今回取り上げた展覧会は、『ソフィ カル ― 限局性激痛』(原美術館)です。
展示について
展示の内容をざっくり説明。
まず最初に掲示されているテキストにより次のことがわかります。
時は1984年。31歳のソフィ・カルは奨学金を得て日本に3ヶ月滞在する機会を得ます。でも実はこの旅行はまったく気乗りしない。なぜなら彼女は好きな男性と離れたくないから。だからさっさと終わらないかなーと思いながら日本に向けて移動します。結果から言うとこの後に彼女は男性にフラれることになります。さあ、フラれる日までのカウントダウン開始!当時の手紙とか写真にカウントダウンスタンプを押すよ!
以上が1階の展示内容。
男性とは、日本滞在のあとにインドのニューデリーで待ち合わせします。だけど会えると思ってたのに、ドタキャンされてフラレてしまった。ものすごく傷ついた!だから、いろんなひとを捕まえて自分の失恋話を聞いてもらった。そしてそのひとの不幸話を聞いて、だんだん立ち直った。
2階では、この自分の失恋話と、他人の不幸話が、布に刺繍されたテキストと写真で、交互に展示されます。
参加者の感想、批評
個人的な失恋体験を「コンテンツ」化して展示している。
それはいったい何を目的に、誰にに向けた表現行為なのだろうか。
これは結局のところ「現代美術家の仕事」というコンテンツビジネスにすぎないのではないか。
そのような目的のために、他者の心の痛みをえぐるこの展示は、倫理的だと言えないのではないか。
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他者の不幸話のひとつ、恋人が飛び降り自殺した話で「彼女の身体がぐちゃぐちゃになった」とあった。
ソフィ・カル は自分の失恋を、この壊れていくものの美しさとして整理したかったのではないか。
自分は展示を見てトータルな体験として「壊れたものの美しさ」を感じた。
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いや、そのテキストの意味は「美しいものが壊れた」のはず。この話をしたひとは「壊れたものの美しさ」とは言っていない。この展示がそれを「壊れたものの美しさ」という意味に錯覚させるような構成だったのではないか?
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これは他人の不幸を聞き出して自分の痛みを相対化していくプロセスだ。他人の痛みを利用し、それを消費していく。これは自分勝手な行為だとは思う。
だけど、私たちも無意識にそうしているのではないのか。その意味では普遍性があるとも言えるのではないか。
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悲惨なストーリーがたくさん並んでいる。
扱いきれないような痛みをどう相対化できるだろうか。本当はできないのではないか?
痛みとは何かを考えるきっかけになった。
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このプレゼンテーションは、見る人に感情的な動揺を与えることが意図されている。それは「芸術的」な意味や価値があることなのだろうか?
なるほど。
この展示が、現代美術というコンテンツビジネスではないか、という指摘は面白いと思いました。また、自分の痛みを相対化することなんてできないはず。という指摘も興味深いです。でもソフィ・カルは自分の失恋を「どこにでもあるよくある話だ」というオチにして解決していきます。
それは個人的な体験を一般的なものに還元していくことですが、これは実はロラン・バルトが『恋愛のディスクール』で試みたこととは真逆のことです。
このディスカッションのまとめはまた次回!
追記:このディスカッションのまとめを記事にしました。
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