続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の公開に合わせて、レビュー会を開催します。10月26日。
光、構図。
写真や映像を構成するこれらの要素は、見る人の感覚に訴えるものであって、言葉にはできない。ふつうの場合はそう考えます。
しかし、綿密に練り上げられた作品においては、それらは言葉では不可能なほどの力強さで意味を指し示すことがあります。
映画『ジョーカー』。
東京オルタナ写真部の読書会メンバーが「すごい映画です!3回観に行きました!」と言うのですが、はぁ?DCコミックでしょ?マンガでしょ?実写映画でもこれまでジャック・ニコルソンやヒース・レジャーという名優が演じたんだからもういいじゃん…と思っていました。
私が完全に間違っていました。観始めたとたんに撃ち抜かれました。ノックダウンされました。見終わってたっぷり1時間は何も言えませんでした。衝撃的でした。
この映画については、すでに大量の記事や情報があふれています。それでも何か書いてみたいと思ったのは、写真家として深く驚き、感銘を受けたからでした。それは光と構図が言葉よりも確実に意味を示すことがある、ということでした。
繰り返される「モチーフ」
クラシック音楽ではメロディの最小単位は「モチーフ」と呼ばれます。モチーフがまとまると主題という主要なメロディーになります。重要なモチーフは曲の中で姿を変えながら何度も現れることがあります。
この映画には、そのような音楽的な「モチーフ」と言うべき重要なショットがいくつかあります。
ちなみに「ショット」とは、切り替わらない1つの画面のことです。通常の映画では1ショットは数秒ほどですが、『1917』のように映画全部が1ショットだけで構成されている場合もあります。
『ジョーカー』の中で繰り返される重要な「モチーフ」は、3種類あります。そしてそれぞれが3回ずつ繰り返されます。ひとまず、このモチーフは主人公アーサーの内的な世界の変化を象徴していると言うことができます。
映画『ジョーカー』の3つのモチーフたち
#1「鳥瞰の移動ショット」
カメラが高い位置から見下ろす鳥瞰の構図で、列車の動きと合わせて前方へ移動していくショットがよく似た構図で3回繰り返されます。
- 明るい海岸沿いを走る列車(昼)
- 灰色の巨大な街へ向かう列車(昼)
- 暴動の予感の中、トンネルを走る列車(夜)
3段階のリズムを踏みながら鳥瞰ショットは暗く不穏に、そして予言的になっていきます。
#2「画面の中の完全な白い部分」
写真や映像では、完全な白はあまり使われません。画面の中の完全な白は明るく視線を引きつけます。しかしそこには見るべき質感がないため、からっぽな印象になります。そのため、画面の中に真っ白なエリアが大きく広がることはあまりありません。
またさらに、この映画は80年代初頭の映像の雰囲気を出すために、画面のコントラストが低く調整されています。そのためハイライトの明るさは通常の映画よりもさらに抑えられています。
この映画の中で、完全な明るい白が使われるショットは、以下の3つのシーンです。
- 道化師の事務所を出ていくとき、階段の下のドアを開けた瞬間
- 枕を押し付けて母を殺す時に肩越しに差す窓からの光
- アーサーが乗ったパトロールカーに救急車が衝突する瞬間
1‥無能で不気味だと侮辱されても生活のためにしがみつかなくてはならなかった道化の仕事。その仕事をクビになったとき、アーサーは絶望と引き換えに自由になります。事務所の建物のドアを足で蹴り開けた瞬間、ドアの外の光が完全な白となって現れます。
2‥幼少期から長年の間、嘘でアーサーを洗脳し虐待をしていた母。その母を枕で押し殺す時、アーサーの肩越しの窓から外の光が入ります。この光のハレーションも完全な白です。彼はまたひとつ絶望を受け入れることで自由になります。
3‥逮捕されたアーサーが乗せられたパトロールカーが、暴動で荒れ狂う街を走る途中、突然、車窓の外が輝き出し、真っ白に吹き飛びます。この輝きは次のモチーフとも関連します。
#3「車窓の外を眺めるアーサー」
アーサーが乗り物の窓ガラスに頭をもたせかけて外を眺めている。窓の外から車内にいるアーサーを撮ったこのショットも同じ構図で3回繰り返されます。
- 日中のバスの窓
- 夜の地下鉄の窓
- 暴動の街を走るパトロールカーの窓
この3つとも、とても美しいショットです。そしてこのショットは、アーサーがカウンセラーに語った「自分が現実に生きているのかどうかわからない」という言葉に呼応しています。
生きていることに現実感を持てない彼は、自分の人生をまるで乗り物の窓から流れる風景を眺めるだけのように感じていたのです。自分は窓の内側に閉じ込められていて、外を流れる「ほんとうの人生」に関わることができない。自分の人生から自分が疎外されている感覚。それがこの物憂げに車窓から外を眺めるショットの意味です。
And until a little while ago it was like nobody ever saw me. Even I didn't know if I really existed.
映画『ジョーカー』台本より アーサーのセリフ
1‥彼の存在に全く無関心な世間を象徴する、昼のバスの窓
2‥どこにも逃げ場のない暗い絶望を象徴する、夜の地下鉄の窓
3‥きらめく夢が始まる暴動の街、その輝きを眺めるパトロールカーの窓
アーサーを乗せたパトロールカーが暴動の街に出た瞬間、CREAMの "White Room"が響きだし、燃え上がるような高揚感を覚えました。自分も暴徒のひとりであるかのように。
3種類のショットが象徴するもの
これらの3種類のショットが特別である理由は、ショットの要素がストーリーを説明するものではないにも関わらず、明らかな意味を示しているということにあります。
鳥瞰の移動ショットは、アーサーを取り巻く世界の変化を予兆として啓示し、逃れられない運命を象徴しています。
画面の中の完全な白は、絶望と引き換えにアーサーが手に入れいていく自由を象徴しています。
そして車窓の外を眺めるアーサーは、彼自身が彼の人生や世界から疎外されていることを意味しています。
疎外、絶望、そして煌めく夢へ。テレビでも見ているようだった窓外の景色は、彼の運命とともに変化していきます。
そして、窓の外の輝きがとつぜん最大になり爆発したとき…彼と世界を隔てていたガラスは破壊され、気を失ったアーサーは暴徒たちによって窓から外に引き出されます。やがてアーサーはゆっくりと立ち上がり、ついに、リアルな人生/世界という舞台に立つことになります。"キング・オブ・コメディ"「ジョーカー」として!
言葉以上の力で意味を指し示す画像
写真や映像において、構図と光はシーンの性質を決定する重要な要素です。しかしそれらが言葉以上の力で意味を指し示すことを想像するのは困難でした。この映画『ジョーカー』を観るまでは。
私たちは、写真などの映像が表現できるのは淡い印象のようなものだと考えています。たとえそれが「力強さ」を表現しているときですら、その意味は明確な形を取らず、とらえどころがないものです。とくに「運命」や「自由」といった抽象的な観念は、言語以外の方法で伝えることはほぼ不可能です。もし映像がそれを試みた時、ほとんどの場合はただ「説明的な映像」になってしまいます。なぜならそのとき映像は単に言語をトレースしているだけだからです。
しかし映像が注意深く綿密に構成された時、その要素は言葉以上の意味を持つフレーズとなりえることを映画『ジョーカー』は示しました。これは言語以上に明確な意味を指示する映像、言わば「写真の文学」が可能だということです。
個人的で切実な問題をテーマに作品を制作するとき、私たちは抽象化の問題に直面します。映像は経験の場面を写すことはできても、私が経験した深い感情をとらえることは決してないからです。あわあわとした印象を超えるオルタナティブな写真作品を構想するとき、この「写真の文学」は重要な可能性をもつだろうと思われます。
すでに他の多くの人によって指摘されていますが、以下では、この映画の引用とオマージュについて触れておきます。
喜劇とは何かと自問する「喜劇」
映画を繰り返す映画
この映画は、1970年代から80年代にかけてのアメリカの映画やテレビショーなどの、過去の大衆映像文化の様式をオマージュ的に踏襲しています。そこに「喜劇(comedy)とは何か」というこの映画の大きなテーマを見ることができます。
その時代の特定の映画からのオマージュ的な引用も見受けられます。主なものは以下です。
『タクシードライバー』(1976年)
『キング・オブ・コメディ』(1982年)
『カッコーの巣の上で』(1975年)
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特に『キング・オブ・コメディ』は映画自体の構成にまで関わる、明確な連関が見て取れます。妄想と現実の境界をあいまいにする手法なども踏襲されています。
またこれは映画にしかできない特殊な引用方法だと言えますが、『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』に主演したロバート・デ・ニーロが『ジョーカー』ではマレー、つまり人気コメディアンの役で出演しています。
ロバート・デ・ニーロは『キング・オブ・コメディ』ではいわばこの映画のアーサーの役まわりでした。彼が『ジョーカー』では反対側の人間である人気司会者を演じるのを見ると、この映画に折りたたまれた何重もの虚構のレイヤーにめまいを覚えそうになります。
最後の精神病院のシーンは『カッコーの巣の上で』を想起させることによって、アーサーの脱走をも暗示させ、このストーリーの結末を多様な解釈に開いています。
また劇中劇として、チャップリンの喜劇映画『モダンタイムス』(1936年)が上映されていました。
そしてさらに『モダンタイムス』の主題曲「スマイル」が非常に印象的に…またそれだけに深いアイロニーとして用いられていました。
この映画は「喜劇とは何か」という問いを、映画自体が引用を繰り返しながら自問する映画だとも言えるかもしれません。自分の尾を飲みこむ龍、ウロボロスのように、映画『ジョーカー』は自己言及的でメタフィクションの要素を強く持っています。
世界への復讐を夢見る喜劇
カウンセリングを受けているアーサーは次のようなセリフを述べます。
I used to think my life was a tragedy but now I realize it's a comedy
ずっと自分の人生は悲劇だと思っていたけれど、本当は喜劇だということに気がついたんだ
この映画の大きな主題である「喜劇の様式」の中で、主人公のアーサーもまたコメディアンとして喜劇とは何かと自問し続けます。
仮面をつけることで個別の人格は匿名の一般へと還元されます。暴徒たちはピエロの仮面をつけることでギリシャ劇における合唱隊のコロスの役割を演じています。その仮面のコロス達に祝福されながら、最後にこの「喜劇映画」は成就します。
しかしそれは同時に「喜劇(Comedy)」とは、古代ギリシャにおいて「悲劇(Tragedy)」の対になる概念であったことを想起させるような終わり方だったと言えます。
ジョーカーは私だ
世界からの抑圧を感じ、そこからの解放を強くあこがれている。そのような解放はファンタジーに過ぎず、現実に起こり得ない。しかしそれを知りつつも、その破滅的な可能性に自分を投げ込みたいと願い続けている。
世界から締め出され、最後のよすがと感じた恋。だがそれさえも自分の妄想に過ぎなかった。そのような恋は存在していない。自分は彼女にとって特別な存在などでは全くなく、見かけたことのあるただの他人でしかなかった。恋人に愛されていると信じることは、世界を支える最後の柱だった。しかしその柱も崩れ落ちる。
「確かに自分もこのように生きている」
見終えた後、しばらく絶句した後に浮かんだのはこのことでした。心をえぐられる絶望と悲恋。真っ暗な気持ちになりながらも、自分はこれを知っている。自分もそのように生きている。そのように感じました。
これは暗く暴力的な映画ですが、同時に人間が生きている条件を示し、深く励ますような作品でさえあったと思います。ある種の力強い浄化作用(カタルシス)と救済の力を持つ芸術作品だと言えると思います。
この映画の内容は、一見、排外主義や極右の台頭の原動力であるものとの関連を感じさせます。しかし実はそうではなく、他者の存在に対する誠実な想像力によって、この映画の主旨は新自由主義や権威主義への強烈なカウンターとなっていると見るべきでしょう。この映画に向けられた批判の多くが自己責任論を標榜していることがそれを証明しています。
優れた構成、見事な技法、深い洞察、歴史へのリスペクト、同時代的メッセージ性、そして美しさ。優れた芸術の条件を備えたこの映画の名が、長く映画史に刻まれるのはまちがいないことだろうと思われます。
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