Kodak D-76 存在意義が失われたフィルム現像液

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コダック D-76と銀塩写真の現在

 

ワークショップを一緒に開催しているティム(Silversalt店主)は、

なんで、多くの人はD-76から離れられないのか?

と、ときどきぼやいています。たしかに私たちのワークショップでも

D-76がいちばんいいって言われて信じてました!

という参加者は少なくありません。

フィルム現像液 コダック D-76。私も使ってました。写真を始めたころに。そして自分の写真がつまらなくて、げんなりしていました。今回はそんなD-76について少し解説してみます。

現代的な価値を持っていないフィルム現像液


D-76。最も有名なフィルム現像液です。しかし写真制作の場面ではその存在意義は、現在ほぼ失われているといえます。そのため、私たちの銀塩写真ワークショップではD-76の使用を勧めることはありません。

20世紀、最も使用された現像液


1927年に発表されたコダックD-76は、20世紀で最も使用された現像液です。かつては35mmフィルムカメラを使う写真家たちに圧倒的に支持されました。その理由はこの現像液で処理すると、フィルム感度を下げずに「微粒子」に仕上げることができたからです。

このD-76が発表されたのは、35mmフィルムカメラが史上初めて発売されたのと同じ時期です。35mmフィルムカメラは当時としては非常に小型でしたが、フィルムサイズも小さく、引き伸ばしてプリントすると、粒子が粗すぎてきれいな写真になりませんでした。サイズの大きなガラス乾板やブローニフィルムからのプリントと競争するためには、微粒子に仕上がるフィルム現像液が必要でした。その要求に応えたのがコダック D-76現像液です。

※「標準現像液」という呼称について
現像処理が安定していて安価であったため、D-76は広く普及しました。D-76は「標準現像液」と呼ばれることがありますが、そのような公式の規格や呼称が実在するわけではありません。ただ広く使われていたため、デファクトスタンダード(事実上の標準)だったというだけのことです。現在では「標準現像液」という用語に特に重要な意味はありません。

Leica I 1927年

 

90歳のD-76は、いぶし銀のかっこよさになれたのか?


では90年以上前に開発されたフィルム現像液D-76は、いまなお魅力的な現像液なのでしょうか?アナログ写真ショップSliversaltの店主ティムによると、

D-76は、いい歳のとり方をできなかった

ということなんだそうです。なるほど、うまいこと言う。

古い処方の現像液は他にも存在します。たとえばRodinal(ロジナール)。特許取得は1891年!現在も市販されている世界で最も古い写真用品です。そしてRodinalは、いまもなお最もシャープネスの高い現像液のひとつです。Rodinal以外にもユニークなキャラクターを持った古い処方の現像液は多数あります。それらは、いい歳のとり方をしてきたといえそうです。

Rodinal

では、D-76はどうなのか。
時代背景と、現像液そのもの、両方から見てみます。

まず最初に、時代背景のほうから説明します。

D-76が支持されたのは、どんな時代だったのか


少し想像していただきたいのですが、D-76が圧倒的に支持された時代、つまり20世紀なかばは、写真はすべてフィルムで撮影されていました!(ほんとだよ!)雑誌や新聞に掲載される写真も全部フィルムです。出版社には、毎日、撮影済みのフィルムが大量に持ち込まれます。どの出版社にも社内には連日稼働し続けるフィルム現像機がありました。

このような時代のフィルム現像液にはどんな性能が要求されるでしょうか?

そう、大量のフィルムを安く安定して現像処理できることです。D-76が広く使われた理由は、まさにそのような現像液だったからです。

そしてこの当時は、フィルム現像に要求されるもっとも重要なことは、確実に写っていることです。とにかくぱっと見て何かわかるものが写っていること。これが最優先でした。繊細で美しいトーンなどは二の次でした。

 

ロバート・キャパ ノルマンディ上陸作戦 1944年 フィルム現像プロセスの失敗により危うく画像が失われかけた。

 

さて写真がデジタルになった現在、銀塩フィルムで写真を撮影する理由はなんでしょう?もちろんその理由は人それぞれで構いませんが、「デジタルにはない銀塩ならではの美しい写真」ができるとしたら、それは大きな理由になり得るはずです。

そしていま、わたしたちが「銀塩写真にしかない美しさ」を追求しようとするのなら、ただ写っていればよかった時代のフィルム現像液をあえて選択する理由はないわけです。携帯電話で美しい写真が撮れる時代に、わざわざフィルムで撮影して冴えない写真を作るのは割にあわない話です。

実際に、写真のトーンの美しさに関しては、D-76は他の優れた現像液に対して勝負権はありません。トーンの美しさを目的に設計されたものではないのですから当然のことです。

それでは次に現像液の構成をもとに説明します。

フィルム現像液 D-76の構成


公開されているD-76の処方は以下の通りです。詳細は省きますが、この構成からD-76の特徴と設計の目的を知ることができます。

D-76は微粒子現像液なのか?


D-76は「微粒子」だとされていますが、実際には高濃度の亜硫酸ナトリウムが銀粒子を溶かし、その結果、粒子を目立たなくしています。これは古典的な設計の「微粒子」現像液です。このタイプの現像液は、粒子を溶かすために銀粒子の形が崩れ、現像された画はシャープではなくなります。古典的な現像液では微粒子性とシャープネスはトレードオフの関係です。

しかしたとえば現代のSPURのフィルム現像液は、これらの古典現像液とは異なるアプローチで設計されています(HRXACROL-Nなど)。そのためSPURの微粒子現像液は、微粒子性とシャープネスの両立を実現しています。

ACROL-N

ではD-76はどんな特徴の現像液なのか


D-76は現像主薬にメトールとハイドロキノンを使用します。開発当時は、この2つの薬品の組み合わせの発見は画期的でした。お互いの欠点を補い合うような調整をすることができたからです。そしてさらに重要なことは、メトールとハイドロキノンを組み合わせると、非常に強い超化成性(Superadditivity)が現れることでした。これにより現像液は疲労しにくくなり、より多くのフィルムを現像処理することができるようになりました。

  • 粒子が目立たない、
  • 現像力が強く、
  • 疲労しにくい現像液

これがD-76の主な特徴です。この性質によりD-76は20世紀に広く支持されました。
そしてこれらの性質は、現像液の別の性質とトレードオフの関係にあります。
つまりD-76は上記の性質であると同時に、

  • シャープネスが悪く、
  • 立体感が弱く、
  • 質感に乏しい画になる現像液

でもあるわけです。

デジタル写真にはない銀塩写真ならではの美しさを追求しようとするとき、D-76は選択肢に挙がらないというのは、このような理由によります。

(現像液の構成と性質について詳しくはアナログ写真ワークショップ:アドバンストクラスで解説しています。)

 

水で倍に薄めればシャープな現像液になる?


D-76を使う人は、よく水で半分に薄めて使います。そうするとシャープになると言われるからです。水で薄める理由は、D-76の「現像力が強く、疲労しにくい」性質を弱めるためです。しかしそれは、D-76の元来の設計目的から引き戻すような場当たり的な調整ですから、あまりいい結果にはなりません。他の高シャープネスを目的に設計された現像液の結果とは比較にならないでしょう。
そう。やっぱり最初から他の現像液を使えばいいんです。

とはいえD-76がだめなわけではない。


さて、ここまでD-76現像液は現代的な価値を持っていないという話をしてきました。しかし、写真は見た目だけが勝負です。そして結果オーライです。もしD-76を使っていて問題がないのであれば替える必要はありません。特殊なプロセスを行う場合はD-76が最適になる場合もあると思います。さらにD-76を現代的に改良することもできます。

自転車レースにママチャリで参戦するのも自由です。そういう無茶なチャレンジは私も大好きです。ただ前提として、自分が何をやっているのかを理解していることは大事だと思います。
 

「写真ハラスメント」の弊害


私が個人的にうんざりするのは、他人の受け売りや自分の思い込みを合理的な根拠を示さずひとに押し付けることです。とくにこれから写真を始める人や、始めたばかりの人に対して、そのようなことをすることです。これには私も長く悩まされました。「写真ハラスメント」と呼ぶべきでしょうね。

D-76については、「薬品を足しながら、うなぎのタレのように長く使ってるのがいい」とか、「現像液がどろどろになったころにいい現像ができる」などと、いまだに言うひとがいます。

もうおわかりのように、それはただ単に現像液が疲労して現像力が落ちているだけのことです。処方通りのD-76は疲労できない現像液です(=質感描写に劣る)。それを疲労できるようにしたいのなら、わざわざドロドロにしなくても、すでに説明したように、新鮮なD-76を水で薄めれば同じことになります。そしてそんなことなら、最初から他の現像液を使うほうがいい結果になります。

「D-76が最高だ」「自分はD-76しか使わない」という人がもし周囲にいて合理的な根拠や理由を示せない場合、その人はそもそも写真をあまり理解していないのかもしれません。そのようなときは、言うことを真に受けずに聞き流すのが懸命かもしれません。

フィルム現像についてのより詳しい解説は、アナログ写真ワークショップ:基礎クラスとアドバンストクラスで行っています。もし関心を持たれた方はご参加ください。お会いできるのを楽しみにしています。ティムと一緒にお待ちしています!