「白黒フィルムの色彩の魔術」シリーズ、3回目は、90年の時を超えてスクリーンによみがえったハイド氏の息子たちです!
色彩のトリックと1931年のハイド氏
薬品を飲むと、ジキル博士の心の中の悪が解放されハイド氏に変身する。
スティーブンソンの代表作『ジキル博士とハイド氏』ですが、映画化作品ではこの変身をどう表現するかが重要な見せ場になります。1931年の映画化作品では、撮影監督のカール・ストラスが色を使った見事なトリックでカット編集なしの変身を撮影しました。
前回の記事では、この撮影テクニックを紹介しました。
白黒フィルムの撮影で色を操るなんて!この方法を考案したカール・ストラス、すごい才能です。しかし同時に彼は何も発明していないとも言えます。ある意味、彼はよく見慣れた映像を再現しただけだったのです。
白い空と黒い唇:写真に写る「正しい色」
コダックは1881年から撮影用の感光材料の発売を始めました。この頃はまだフィルムではなくガラス乾板です。そして1889年に映画用フィルムの販売を始めます。
しかしこの初期の感光材料には現在からは想像できないような独特の問題がありました。それは、黄色や赤色が写らなかったのです!赤色は黒くなり、逆に紫や青色は写りすぎてしまい白っぽくなってしまいます。古い風景写真では、空が真っ白で雲がほとんど写っていないのはこのためです。
『清国北京皇城写真帖』国立国会図書館デジタルコレクション
映画の撮影でも様々な問題がありました。俳優のブロンドヘアは輝きを失い、赤い頬は暗く沈み、青い目は死んだ魚のように白っぽくなってしまいました。無声映画の俳優が独特のメーキャップをしているのは、フィルムの性能にも理由があったのです。
当時の写真や映画では赤色系の口紅やアイシャドーは黒くなる。
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このようなフィルムは「オルソクロマティック」と呼ばれていました。これは「正しい色」を意味していますが、実際には紫から緑色までしか感光性がなかったので、黄色、オレンジ色、赤色は黒く写りました。最初期の青色しか写せなかった時代の感光材料に比べると改良されたので「オルソ(正しい)」色だというわけです。
※Ortho(オルソ):ギリシャ語の接頭語で「正しい」「正当」「正確」などの意味。
逆行する技法:パンクロマティックからオルソクロマティックへ
ところで、白黒フィルムを使って写真を撮る人は、いちどは気になったことがあると思いますが、ネオパン、フォマパン、トライXパン…って、なんでパンやねん!フィルムの名前になぜ「パン」が付くのか。これはパンクロマティックの意味です。パンクロマティック、略してパン。わざわざ名前につけるのは、これが売りだったからです。
1922年にコダックから目に見える色すべてに感光性がある「パンクロマティック・フィルム」が発売されました。当時のフィルムはオルソクロマティックだったので、パンクロマティックは画期的です。差別化のためにフィルムの名称に「パン」を入れました。とはいえ、1930年ごろには販売されるフィルムのほとんどはパンクロマティックになりオルソクロマティックのフィルムは製造されなくなりました。それなのに現在にいたるまでフィルム名に「パン」や「P」が付いているのは、もはや100年続く伝統だと言えますね。
※Pan(パン):ギリシャ語の接頭語で「全ての」などの意味。
1931年の映画『ジキル博士とハイド氏』は、もちろん最新のパンクロマティック・フィルムで撮影されました。しかし映画の撮影現場の人々は、見習いのときから長い期間ずっとオルソクロマティック・フィルムで仕事をしてきたのです。赤色は黒く写る。彼らにとってはなじみの深い常識です。むしろ赤色が明るく写るパンクロマティック・フィルムへの対応の方が、彼らには新しい仕事でした。
『ジキル博士とハイド氏』の撮影監督カール・ストラスは、この新旧のフィルムの違いを利用して変身シーンを撮影したと言うこともできます。
- 赤色のメーキャップは、従来のオルソクロマティック・フィルムでは黒く写る。
- しかし新しいパンクロマティック・フィルムでは明るく写る。
- それなら、俳優に赤色でメーキャップをしておいて、ショットの途中で撮影レンズに青色フィルターを入れて擬似的にオルソクロマティックにすると…
- メーキャップが黒く浮き出てきて、俳優の顔を変化させられる!
パンクロマティックをオルソクロマティックに戻す!技術革新の流れを逆手に取った映像マジック!やっぱりカール・ストラス、すごい!
この疑似オルソクロマティック撮影。すでに紹介したように1950年代の日本映画でも使われたテクニックですが、カラー映像が当然でデジタル合成もふつうに行われる現在の映画で使われることはありません…でした。この映画が登場するまでは!!
ハイド氏の息子たち:映画『ライトハウス』
謎めいた孤島にやって来た“2人の灯台守”が外界から遮断され、徐々に狂気と幻想に侵されていく
映画『ライトハウス』公式サイト
ロバート・エガース監督、A24(『ミッドサマー』!)製作のゴシック・ホラー映画『ライトハウス』。主演は、ロバート・パティンソン と ウィレム・デフォー!
撮影監督ジェアリン・ブラシュケとロバート・エガース監督は、この映画を白黒フィルムで撮影することで同意していましたが、それだけでは満足せず、画のトーンをもっと古い映画に近づけようと試みました。彼らが最初に考えたことは、そう、オルソクロマティック・フィルムで撮影すること!
1930年より前の映画と同じフィルムで撮影するぞ!コダックに相談だ!え、ない。そんなフィルムはもうない。だって1930年から作ってないよ!じゃあ作る?しかし特別オーダーで作るとなると、とんでもない予算が必要になる。
彼らは予算を有効に使うために、現行の映画撮影用白黒フィルムKODAK Double-X5222で撮影することにしますが、このフィルムはもちろんパンクロマティックです。これではふつうの画になってしまう。ではどうするか。フィルターを使って疑似オルソクロマティックにしよう!
撮影監督ジェリアン・ブラシュケはいくつもの青色フィルターを使ってテストしてみますが、うまくいかない。そこに助け舟を出したのが映画カメラのPanavision。予算は自社持ちで、疑似オルソクロマティック撮影用の特殊フィルター開発の協力を申し出ます。そしてPanavisonの紹介で実際にフィルターを開発したのが、大判写真レンズ等でおなじみのシュナイダー社!撮影時にカットしたい色の波長を伝えてから1ヶ月後、ついに撮影チームが望んだフィルターが届きました!
カール・ストラスが考案してからほぼ90年。こうして、疑似オルソクロマティックで再び映画が撮影されることになったのです。
このフィルターを使用すると、皮膚のすぐ下の血管や目に見えないシワなどの微妙な変化をフィルムにとらえることができました。厳しい風雨にさらされ狂気をはらんだ灯台守の顔、あのカール・ストラスのハイド氏が再びスクリーンによみがえる!このふたりの灯台守は、映画史における正統な(オルソな)ハイド氏の息子たちと呼んでいいのではないでしょうか。
映画『ライトハウス』の撮影では他にも多くの試みがあります。使用されたレンズは、ゲルツやボシュロムなどのオールドレンズです。あげくには19世紀の傑作ポートレートレンズ、ペッツバールまでが、Panavisionのカメラのために改造されて使われました。
アスペクト比、つまり画面の縦横の比率は1:1.19という正方形に近い形が採用されました。写真のフォーマットでは6x7に近いですね。これも古い映画の形式をふまえているのですが、縦長に近い構図により、外部から隔絶されて閉鎖した物語の空間を表現することに成功しています。
映画史と写真史の上でも注目の映画『ライトハウス』は2021年7月9日から公開です!
映画『ライトハウス』レビュー会 & 撮影ワークショップ
東京オルタナ写真部では映画『ライトハウス』のレビュー会を開催します。今回のレビュー会では、同時にオルソクロマティック・フィルムで撮影するワークショップも行います。
現在、映画フィルムではパンクロマティックしか生産されていませんが、写真用フィルムではオルソクロマティック・フィルムは現役です。映画『ライトハウス』でも使用されたペッツバールタイプのレンズを使ってポートレートを撮影してみます。もちろんフィルムはオルソクロマティック。どんなふうに写るのか、狂気の灯台守やハイド氏は写せるのか、一緒にやってみましょう!
ワークショップではオルソクロマティック・フィルムで撮影します!
開催日程
2021年月7月31日(土)撮影ワークショップ 16:00〜 レビュー会 18:00〜
- レビュー会のみ参加される方は18:00にお越しください。
- レビュー会は対面とオンラインのハイブリッド開催です。オンライン参加も歓迎します。
- 参加希望者の方にはオンライン参加URLをお知らせします。
- 開催場所:アトリエオルト(南青山)
- 参加費:材料費+会場費カンパとして2,000円程度。差し入れ歓迎です!(レビュー会のみ参加の方は1,000円程度)
- 進行:大藤健士
参加方法
このワークショップは終了しました。
「白黒フィルムの色彩の魔術」シリーズ
参考サイト
The Look Of The Lighthouse : Hurlbut Academy
Chronology of Film : Kodak motion picture