先日開催した映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』レビュー会では、とても刺激的な洞察や意見が交わされました。
もしこの映画の評判を検索していてこのページに来た人のために先に言っておくと、DCコミックの実写版を期待するなら微妙な作品でしょう。この記事の内容のとおり、この映画はまさに「すでにみんなが知っていることを上手に言い当てる」ことへの深い疑問がテーマになっているからです。しかし、映画が好きで映画を見たいと思うのなら、すぐに見に行きましょう!見て語るに足る、すごい映画です。
以下はレビュー会での解釈や意見を整理したものです。ほんとうに刺激的なレビュー会でした!そして素晴らしい映画です!
ロラン・バルトとアーサー・フレック/作者の死
ロラン・バルトは「アーサー・フレック」だと思った。記号論で名を挙げ、恋愛の本をヒットさせた批評家ロラン・バルトは1980年に事故死する。
彼の死の年に出版されたバルトの最後の作品『明るい部屋』は写真論として知られているが、この本は写真一般を漫然と論じたものではなく、「事実の平凡さに抵抗する」という彼にとって極めて切実なモチーフを持った論考だ。
たとえば宮沢賢治の作品を、宮沢賢治の人柄や人生に還元するような解釈は、一般にわかりやすく受け入れられやすい。それは、そのようにして作りあげられる宮沢賢治と作品のイメージが平凡だからだ。そのイメージは凡庸であるがゆえに受け入れられやすいのだ。そして、そのイメージは、現実に存在する作品や作者とはほど遠いものとなる。ロラン・バルトは「作者の死」という言い方でそのような解釈の姿勢を批判した。しかしやがて、ロラン・バルト自身もまた晩年になり、世間が作り出す著名批評家「ロラン・バルト」のイメージから逃れなくてはならなくなった。
バルトの死因はおそらく偶発的なもので悲劇的な要素はないはずだが、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の主人公アーサー・フレックが死んだ理由を考える時、ロラン・バルトの最後を強く連想せずにはいられない。もしかすると、この映画はロラン・バルトの晩年へのオマージュ、あるいはパロディなのではないかとさえ思わされる。
バルトが提唱した「作者の死」という比喩的なイディオムは、批評の自由な可能性をひらくもののはずだった。しかしこの映画では、ジョーカーを生み出した「作者」アーサー・フレックに、この言葉は比喩ではなく文字通りに向けられることになる。この世界でアーサーは死に、ジョーカーだけが生き続ける。
ジョーカーそのものだったはずのアーサー・フレックは、なぜジョーカーとは切り離されたのか。そしてなぜ彼だけが死ななくてはならなかったのだろうか。
誰も話題にしない「主人公」
レビュー会ではまず、参加者にそれぞれ映画の感想を述べていってもらった。そして最後の人の番になったとき、その人はこんなふうに話し始めてくれた。
「ここまで全員がアーサーについて話したが、誰もリーについて話さなかった。」
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「ふつうに考えるとこの映画の主人公はアーサーとリーのふたりのはずなので、リーについて話す人がいないのはおかしなことに思える。しかしこのことには理由があるように思われる。
主人公であるはずのリーという登場人物が印象に残らず、また話すほどの特別な内容がないように感じられるのは、リーが非常に平凡な人物だからだ。彼女の見た目や言動は派手でエキセントリックだが、その行動はまったく平凡な内面性に支配されている。つまり、彼女はあの『ジョーカー』の愛人になりたかったのだ。大衆の欲望を刺激するアイコン『ジョーカー』。その愛人になることは、平凡な存在の彼女自身を、世間がうらやむ特別なステータスに引き上げる。そのように彼女は信じた。彼女の平凡さゆえに。
リーの平凡さは彼女を性格づけるような特色のあるものではない。それは大衆が持つ平凡さだからだ。リーは自分の欲望を自分自身のものだと思い込んでいる。この欲望を持つ自分は特別な存在だと彼女は信じている。しかし実際には、リーは世間の大衆が持つ一般的な欲望を内面化しているにすぎない。リーにとって、ジョーカーの愛人、ハーレイ・クインになることは、世間の価値観に自分の内面を全面的に明け渡すことで実現されるものだった。
主人公であるにもかかわらず、リーについては語るほどの印象が残らないのは、彼女が内面的には顔のない大衆のひとりにすぎないからではないだろうか。その意味では、リーは、『ジョーカー』に熱狂し『ジョーカー』を消費する大衆を代表する存在だと言える。そしてそれはまさにこの映画の『もうひとりの主人公』にふさわしい。この映画のふたりの主人公とは、『アーサー・フレック』と『大衆』だからだ。『ジョーカー』というイメージを巡る、彼らの間の闘争がこの映画のストーリーの主軸をなしている。
リーにとっては、ジョーカーの愛人というステータスを得ることが重要であり、アーサー・フレックという個人は関心を向けるほどの価値はなかった。アーサーがジョーカーの身体であった期間、彼女はその身体をジョーカーとして愛した。しかし、アーサーがジョーカーでなくなった後は、アーサーは彼女にとって無にも等しいものとなる。ジョーカーではないアーサーという個人と身体は、もう彼女の視野に映ることさえない。大衆の間に『ジョーカー』というイメージが存在する限り、リーは『ジョーカーの愛人』であり続けられる。アーサーは不要なのだ。
監獄/城/王
アーサーが収監されている監獄の遠景のショットがあった。このショットで、この監獄は海によって外界から遮断された島になっていることがわかる。細い一本の道路だけが、監獄と外の世界を繋いでいる。この監獄の情景は、世界から切断されたアーサーの内面のメタファーになっている。第一作で描かれたように、アーサーは外部の世界から切断され自分の中に閉じ込められている。アーサーが置かれたこのような条件を、監獄は象徴している。
そして、自分の内面に閉じ込められた存在は、そこで囚人であるとともに主人でもある。アーサーの監獄は、監獄であると同時に、アーサーの城でもある。アーサーはそこでは王なのだ。アーサーは裁判の初回の公判から英雄のように凱旋し、他の囚人たちの大歓声に迎えられて自分の城に入城する。
裁判でのアーサーは『ジョーカー』として振る舞おうとするが、徐々にほころびが出始める。数回目の公判のあと、アーサーの城であるはずの監獄の中で、アーサーは看守たちに虐待的な暴行を受ける。これは、アーサーが自分の内面で主人の座から引きずり降ろされる瞬間であり、この破壊的な体験は、このあとにくる恐ろしい失恋を予兆している。
『ジョーカーと影』
アーサーが生み出した『ジョーカー』とはなんだろうか?それは前作でアーサーの言動がきっかけとなり始まったものだが、『ジョーカー』とは、アーサーその人であるよりも大衆の欲望がアーサーの身体を借りて形を得たものと言うべきではないだろうか。それは大衆に供される消費コンテンツであり、また同時に大衆が作り上げる欲望が対象化した概念でもある。
アーサーは『ジョーカー』のイメージに自分を適合させようともがき続けるが、やがてそのイメージ自身から排除されてしまう。裁判の証人のかつての同僚の発言に、アーサーは『ジョーカー』はもはや自分ではないことを悟る。この映画の冒頭に序曲(overture)として置かれたアニメーション『ジョーカーと影』が指し示したとおりにストーリーは進んでいく。
アーサーは前作で心をえぐるような悲恋を経験した。その恋は全てが自分の妄想だったのだ。続編の今作では、恋は現実のものであり恋人は現実に存在している。しかし、自分を初めて認め受け入れてくれたとアーサーが信じたその相手は、実は『ジョーカー』という大衆が作ったイメージを愛していたのだった。そしてやがて、アーサー自身は彼女にとって何者でもない無価値な存在であることを思い知らされる。この恐ろしい失恋は、前作の悲恋よりもさらに悲劇的で破滅的だ。
アーサーの人格は、人々の平凡さによって殺された。アーサーの周囲の人々はいずれも極めて平凡なものに彼を還元しようとした。リーは『ジョーカー』に、アーサーの弁護士は『二重人格の精神病患者』にと、ありきたりなわかりやすさにアーサーを押し込めた。そして彼らの平凡さはアーサー自身の人格的存在に関心を払うことは決してなかった。
拡大再生産されるイメージ
この映画の最後の解釈についてだが、現実のアーサーは、テレビの前で廃人のように座り続けているだけなのかもしれない。サイコパスのジョークも、サイコパスに刺されることも、リーにステージで撃たれることも、すべては虚脱し廃人となったアーサーが残りわずかな意識の底で見た夢想だったのではないか。なぜなら、大衆の平凡さ、弁護士の平凡さ、リーの平凡さは、どれもそれだけでひとりの人格を破壊するのには十分な虐待を与えるものだからだ。ナイフで刺されなくともアーサーは廃人となり、やがて現実に死んだだろう。
最後がアーサーの夢想だと考えれば、このラストシーンは自然なものに見える。面会に来た人物(リー?)に会うことはなく、サイコパスのジョークの間も看守が呼びに戻ることはなく、サイコパスの囚人に刺されたイメージが、ステージ上でリーに撃たれるイメージと重なることも、深い納得をもって理解することができる。
そして、アーサーを刺したサイコパスの囚人が、死にゆくアーサーの背後で自分の口を切り裂いている理由もまた明白になるのではないだろうか。なぜなら、サイコパスの囚人もリーと同じく『ジョーカー』を消費する大衆だからだ。『ジョーカー』というイメージはすでにアーサー個人の存在から切り離されている。サイコパスの囚人は無用の肉体であるアーサーを刺し、そして同じナイフで自分の口を切り裂く。いまや彼もまた『ジョーカー』だからだ。『ジョーカー』はアーサー・フレック個人の身体という実体から開放されて純粋なイメージとなった。こうして『ジョーカー』は、大衆の平凡な欲望の中で拡大し再生産され続けていくのだろう。
この世界でアーサーは滅び、そしてジョーカーだけが生き続ける。」
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