私たちはいつも写真家に出会います。
作品を通じて、本を通じて、あるいは直接本人に会うことによって。
私たちが出会うのは歴史的な写真家、海外の写真家、過去の写真家、存命の写真家、現役の写真家、そして目の前にいる写真家です。

先日、アナログ写真ワークショップ開催の報告をfacebookに投稿したところ、知らない人からコメントをもらいました。そのコメントは、言いがかりのような私への批判と自前の写真論が混ざった、少しよくわからない内容のものでした。

果たしてどう返信したものか、あるいは無視するべきかしばらく思案しました。

ところでこのコメントの投稿者を私は全く知らないわけではありませんでした。ずっと以前に名前を見たことがある写真家でした。私よりもかなり上の世代の写真家で、たしか人工的に色を着けたようなヌード写真の作品を作る人だったような…。

彼の私への批判は的外れでナンセンスです。それを笑ったり憤慨したりするのは簡単です。しかしそれよりも、彼はいったい何を言いたいのだろう?と思いました。彼は本当は何か別のことを言いたいのではないか。しかしそれを自覚できないまま気持ちが先行したから、こんな言い方でコンタクトしてきたのではないか?もしそうなら、私は彼が本当に言いたいことを歴史的資料として聴いてみたいと思いました。

「歴史資料として話を聴く」と言うと人を馬鹿にしているようにも聞こえますが、本当にだれかを理解しようとするとき、私たちは歴史家になるほかないのではないかと私は思います。

心酔する、崇拝する、非難する、侮辱する。このような態度を私たちは写真家と出会うときに取ることがあります。しかしいずれも作品や人を理解する上ではあまり意味のないことです。ヴァルター・ベンヤミンは1930年代の写真論で19世紀の写真と芸術を批判しますが、攻撃的な非難と一方的な勝利宣言をしているだけで、写真論としての内容は乏しいものです。また1970年代に中平卓馬もベンヤミンを真似て縮小コピーしたようなことを繰り返しています。ベンヤミンや中平がやったのは「Aは絶対じゃない。Bという見方だってある。だからAは間違っている。よってBが正しい。」というようなことです。これは当然、次にCが出てくると同じ理屈でBを批判できることになります。彼らの理屈は一見まともなようにも見えますが、本質的な議論になっていません。このような方法では問題の理解は進むはずがなく、作品や人を理解することも到底できません。

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1968年は日本では全共闘などによる学生運動が激化した年です。当時の学生運動は「Aは間違っている〜よってBが正しい」理屈を過激に主張し、その「正しさ」を守るために暴力行為も辞さないという傾向になっていきました。関係者には存命の人も多く、中には現在も活動を続けている人もいます。このいまだに評価の難しい「政治運動」を、社会学者の小熊英二さんが『1968』という本にまとめています。小熊さんはこの本で当時の学生運動を「現代的な不幸に初めて直面した世代の、自己表現のための騒乱」だったと分析しています。私はこれを読んだ時、とても人間への愛のある分析だと思いました。断罪か賛同かというレベルを超えて、彼らの人間的で切実な動機を理解しようとする。これは彼らの声を歴史資料として聴くことで可能になることです。

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