こんにちは!この記事では、美術作品を見て言葉にする「批評する」ということを続けていると、こんなにも豊かになれるという私(OgawaYukiko)の体験をお話したいと思います。写真でも絵画でも美術やアートを見るのが自分は好きだと思う人は、ぜひ最後まで読んでください。

 

作品を言葉にしてみたら人生が変わった

 

私は過去に東京オルタナ写真部のアナログ写真ワークショップに参加しました。現在は、絵画などの美術を学びながら、写真作品をマイペースに制作し続けています。

みなさんと同じように、私も展覧会やギャラリーをよく訪れ、絵や写真作品を見るのが大好きです。しかしそれだけでなく、作品を言葉で批評するという場に定期的に参加しています。

この「作品を見て言葉で批評する」ということがあまりにも刺激的で面白く、ただ作品を見るだけだった頃から私の人生が大きく変わりました!!…と言っても言い過ぎではありません。

何がそんなに刺激的なのでしょう?
「見る」とはどういうことで、言葉にすることで一体何が起こっているのでしょう?

 自分自身の体験を述べると、何よりも、美術作品を自覚的に「見る」ことができ、以前より格段に見ることが楽しくなりました。まるで、しっかり開かれた目で明るい場所で見ているような感覚です。そして、さらに向こうに明るい開けた場所があることを知っている感覚です。これまでは薄暗い靄に包まれた閉ざされた空間で見ているようでした。

それから美術について学ぶ機会が増え、それでも飽き足らずにイギリスの大学でも美術を学ぶようになりました。

 

作品と言葉

 

 みなさんは、美術館やギャラリーに行くと、会場でどのように作品を見ているでしょうか。記載されている作品解説や時代背景などを読んで、見ることを通じて学ぶ?それとも言葉にとらわれずに、見ることを通じて何かを感じ取る?

 「美術は感性だ。心で感じるものだ。言葉にする必要はない」こういう言葉をよく耳にします。

私も作品展に写真作品を出展すると「雰囲気がありますね」「感性が違いますね」という言葉をもらうことがあります。褒め言葉かもしれませんが、その方が何を感じたのかこれではよくわかりません。私は、作品を作ること、また見ることはコミュニケーションだと思っているのですが、それが成立せずにかっこいいね、素敵だね、という言葉だけで終わってしまうことが多々あります。

もっとも、昨今は有名作品が展示されている大型絵画展でインスタ用の撮影ブースが設けられていたり、コラボグッズが多く販売されていたり、作品と向き合ってコミュニケーションすることだけを目指して来場する人ばかりではないのかもしれません。

 

by Flickr user David Ramos CC-BY 2.0

 

言葉にするとは?

 

言葉にするとはどういうことか、考えてみます。

歴史的な有名作品であっても現代作家の作品についても、これいいね!キレイ!素敵だね!または、これよくわからない…こんな言葉をよく聞きます。昨今は特にSNS上でいいね!を押すか押さないか、という行動で目の前の画像について瞬時に好きかそうでないか表明する場面も多いと思います。私自身も、この作品はなんだか好きだけどこれはなんだか好きではない…という、まさに言葉を持たない時代がありました。

しかし言葉にすることは、いいね!かっこいいね!や、なんか好き、なんか嫌い、を言うことではありません。また、本や解説文などから得た知識を持って、これは印象派で…や、これを描いた時、作家は困窮しており…などと既存の枠組みにはめ込んだり一般的に正とされる知識を言い当てることでもありません。

言葉にするとは、その作品を見て自分は何を感じるかまたそれはなぜか、なぜ自分は心を打たれたのか、何に価値があると思うか、なぜ感情を揺さぶられるのか、などを言葉で表し伝える「批評する」ということです。

私は海外に居住していたのですが、在ヨーロッパの友人に作品を見せると、自分がそこから何を感じたか、それはなぜかを言われたり、ここはなぜこのようになっているのか意図を聞かれたりします。

「批評する」というと堅苦しい印象を受けるかもしれませんが、まずは作品に対して自分が何を感じたか、どのような発見をしたか、それはなぜか、を言葉にして伝えるということだと思います。

 

プリントスタディとワークショップ「作品を見る/語る」

 

東京オルタナ写真部で設けられているプリントスタディは、各人が作品に向き合い、見て考えて言葉で批評するということを体験する場です。各参加者が自分の目で見て感じたこと、発見や分析した内容を言葉にして交換することで、自分一人では気づかなかった作品の魅力に気づき、その作品についてより深く学ぶことができます。

先日のワークショップ作品を見る/語るでは、モネの「印象・日の出」を見て語るという実践を行いました。参加者がそれぞれ感想を述べ合う段階から始まり、言葉を重ねていくうちに、やがて「なぜモネはこのモチーフをこのように描かなくてならなかったのか」という命題をめぐるとてもスリリングな議論に発展していきました。議論に参加したひとは、この後全員が、この絵の見方が変わったと思います。

 

モネ「印象・日の出」
Claude Monet , Impression, Sunrise 1872

 

これはほんの一例ですが、このように複数の視点からの発見とそこからの考察があると、改めて作品に立ち戻って観察し、より深く作品を体験したい強い衝動に駆られます。また、モネがこの絵で目指したものや意図、伝統的絵画手法との関係、などさらなる学びへとつながります。他の画家や作品もこのように分析的に見ていくと、「印象派」とされる各作品や作家の中でも目指すものや目的としているものが同じではないことに考えが至ります。

ちなみに私が学んでいるイギリスの大学の作品批評の課程でも、課程全体を通じて、いかに自分で見て考えるかということが西洋美術史的な知識よりも優先されます。(与えられる西洋美術史的な知識は多くなかったと言えると思います)。毎週行われるグループディスカッションでは、本やインターネットで調べた知識を披露する人は一人もいません。もちろん、先行研究を調べればすでに誰かが述べてより深く研究している内容かもしれないし、瑣末な事柄もあるかもしれません。しかしいかに自分で見て考え言葉にするか、ということが重要視され、いかなる意見もディスカッションのContribution(寄与)とされ歓迎されます。

 

東京オルタナ写真部 ワークショップ「作品を見る/語る」 より

 

言葉にすることで得られること

 

言葉にすることで何が起こるか、まとめてみます。

作品に誠実に向き合い深い作品体験ができる

作品に向き合い、自分が心を動かされたのはなぜか、何が素晴らしいと思うか、時間をかけて分析し言葉にすることで、作品とより深いコミュニケーションを行うことができます。また、言葉にすることで他の人と交換可能なものになるので、ディスカッションもでき、作品に対するさらに深い理解や見解を得たりすることもできます。

自ら理解し、学んでいくことができる。

自らの目で見て考え分析することで、本から得られる先行知識がなくても作品についての見解を述べることができます。また、複数の歴史的作品を分析することで通史的な観点からの見解も得ることができると思います。先ほどのように、既知の「印象派」という枠組みを当てはめてしまうだけでは気づかなかった見解を自分で得ることができます。

作品作りの検討ができる

これは自分で作品を作る人に当てはまりますが、過去に歴史的にどのような取り組みがなされてきたか、その作品にどんな価値があるのか、を検討することで、それらを踏まえた上で自分は何をやるのか、自分のやることはそれらとどのような関連があるのか、ということを学び考えながら進めることができると思います。学ぶことと制作することが表裏一体になっていきます。

問題意識と批評から得られる成果は人それぞれだと思います。しかしまず言えるのは、必ず何かの発見があるので作品を見るのが格段に楽しくなり、何を見ても面白くなります。好き嫌いで判断し、なんとなく好きでないので作品の前を素通りする…ということがなくなります。もちろん、より深い理解が得られること、他の人が言っていることに惑わされず自分の見解や意見を持つことができること、その作品が世界に存在する意味を考えることができること、などなど…作品に向き合う時間が深く豊かになることは間違いありません。そのように向き合うことこそが、文化的な行為であると思います。

 

by Flickr user Jrm Llvr CC-BY 2.0

 

美術鑑賞は「役に立つ」?

 

日本では知識を得ることがとても重要視されています。西洋絵画に関していえば、昨今は世界のビジネスエリートが身につける教養としての西洋絵画、という本が話題のようです。私も読んでみたのですが、確かに知識として持っていると絵画を見る助けとなる歴史年表的記載がコンパクトに書いてあると思いました。歴史的な時代認識をすることは作品を見る上で重要なことです。しかしこの歴史年表的な知識を得てそれに当てはめ、これは印象派です、などと言い当てることだけが作品を見ることではないと思います。問われているのは応用力だと思います。共通言語を用いていかに自分の目で見て考え分析し、言葉にし、伝えていくか。世界のビジネスエリートができるというか、今の日本で不足しているのはこの部分なのかなと思います。更に、美術がビジネスや思考力養成のために役にたつかどうか、という基準からも離れて作品に向き合うこと自体が文化的で人生において豊かさをもたらしてくれるものと思います。

批評自体、誰が意味を付与するのか、見るものである私たちは何者なのか、などさらなる検討事項もありますが、まずは批評することで生まれる楽しさや豊かさについて述べました。これを続けていて困っていることといえば、作品に向き合うことが面白すぎて、美術館にいる時間がいくらあっても足りないことでしょうか。

 


アート批評ワークショップ「作品を見る/語る」より:見えるものを描くということ
わたしが見ているのは、ほんとうにわたしが見ているものなのだろうかワークショップ「作品を見る/語る」では進行役のわたし(大藤健士)も作品批評を書きます。国立西洋美術館の常設展で、ド派手なルネッサンス絵画に囲まれてひっそり展示されていた、キリストと聖母マリアの絵。ぱっと見たところ中世っぽい感じの絵なのですが、異様ななまなましさを感じて立ち止まってしまいました。この絵からひしひしと感じる信じられないほどの悲痛さ。でもこれは570年前のヨーロッパで描かれた絵です。当時この絵を描いた人もこの絵を見た人も、...
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作品を言葉で語ることは人生を変えるのか / 美、恋愛、そして客観的現実
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