ロラン・バルト『明るい部屋』の場所

ロラン・バルト『明るい部屋』。
東京オルタナ写真部ではこの本の読書会を何度か開催してきた。読む度にさらに深く、さらに鮮烈に、そして見誤りようのない明晰さで立ち現れてくる。

今月、この本に関して私たちの理解がたどり着いた地点を共有する夜話会を開催するのだが、その準備として関係する問題を整理しておこうと思う。というのも、この本から私たちが理解し得たことを準備なく話しても、正気だと信じてもらえないだろうからだ。

私たちが出会ったロラン・バルトは(そしてプラトンも)、ちまたで目にする批評や解説が描くものとはまったく異なるものだった。一緒に本を読んだメンバーの間で深い了解とともに共有された数々の重要な事柄は、この読書会の外ではほとんど出会うことがなかった。

私たちの読書会は孤立したカルトなのだろうか。それとも、私たちが生きているこの社会のほうがカルト化を経た集団であり、内部にいる限りそのことに気付かないのだろうか。

バルトが書いたテキストに導かれ、私たちはそれなりに遠いところまで来てしまった。その場所について話すための予備的な問題を、ひとまず書きだしていこうと思う。

 

「作品を言葉で語ると人生が変わる」

東京オルタナ写真部では批評ワークショップを開催している。このワークショップでは、美術作品に対して言葉を用いて向き合うことを経験する。要は、作品を見てそれを言葉で語るわけだが、参加してくれた人の何人かは「人生が変わるような体験」だったと感想を述べてくれる

だが人生が変わるとはどのようなことを言うのだろうか

SNSへの投稿動画がきっかけでスラムからバレエ学校へ。
戦争から避難するため全てを捨てて国外へ脱出。

ふつう、私たちが「人生が変わる」と言うとき、このような状況を指す。生き方や生きる環境が、具体的にそれ以前と変わってしまうことが「人生が変わる」ということの一般的な意味だ。

では美術作品について言葉で語ることはどうだろう。

絵について言葉で何かを言ったところで、自分の人生の何かが具体的に変化することはないだろう。上記のような意味では、そんなことで何ひとつ変わらないのだ。

それなら、私たちが批評ワークショップで経験することは何なのだろうか。ワークショップの参加者が「作品を言葉で語ることで人生が変わった」という実感を持つのはなぜだろうか。彼らの実感はどこからやってくるのだろうか。

  

アートについて語るときに我々の語ること

美術作品について何かを語ることは、日本では一般に教養の有無の問題だとみなされている。「教養」の原義はさておき、この語は通俗的には「知的な雑学」の意味で用いられている。知らなくて困ることはないが、知っていればかっこうをつけることができる。そのような知識のことだ。そのため、美術史について書かれたビジネス実用書などが存在する。

だがこれらのことは、私たちの批評ワークショップとはまったく無関係だ。私たちがワークショップで行っていることを一言で言うなら、それは「美術作品と出会うこと」だ。

作品を見たときに感じる最初の印象を味わえる時間は「オレンジの香りを楽しめる時間よりもずっと短い1ケネス・クラーク)」。その段階の私たちは、まだ、その作品の前を通り過ぎることができる。香りをさっと味わい、立ち去ることができる。何も失わず、傷つかずに。

だがもしそこで立ち止まり、言葉でその印象をとらえようとすると、作品は私に気づき、私のほうへ振り向き始める。そして言葉が自分が感じたものを捉え、それを掴み上げ、その経験を分析し始めたとき、私は作品に見つめられ、その視線に射抜かれる。

このときの状態を「一冊の本のように作品が現れる」と書いたことがある。しかし、より正確な表現をするなら、それは「恋」と同じものだと言える。いま初めて目があっただけの相手に、私は自分の存在をかけて関係したいと切望する。恋人は私に大きな謎として現れるが、それはいまや私の生にとってかけがえのない意味をたたえた謎なのだ。私はもう傷を負わずにここから歩き去ることはできなくなっている。

作品とのこの関係を開く鍵が言葉なのだ。言葉がこの恋を出現させ、言葉が私の中に喜びを生む。作品を言葉で語ることが人生を変えるような経験であるのは、それが恋愛の経験に似たものだからだ。いまこの経験を生きる私にとって、人生はそれ以前と同じではなくなっている。だがこの経験をいったいどう「説明」できるというのだろう。

恋愛は、それを生きる当人だけにその意味を開示する。しかしその当人でさえ、恋愛の意味を知ることができるのは、自らが恋愛の時間のなかにいるときに限られる。恋愛が終わったとき、人はそれを見失い、困惑し、そしてなんとか受け入れることのできる「客観的な説明」を探しだし、意味が不在となった空虚な場所にそれを据えようとする。

 

客観的説明、不在、代替、遅延

客観的な説明とは何だろうか。19世紀以降、私たちは説明可能な客観性に絶大な信頼を置いている。それがなければ現在の科学も社会も経済も存在することはなかった。「客観的説明」はそれほど重要で強力なため、私たちはそれこそが現実を正しく表現し、その基底をなしていると固く信じている。

だが私たちが客観的説明を試みるとき、「正しい現実」であるべきその対象は本質的にはそこには存在していないのだ。説明の対象が言葉に置き換えられない限り、説明を始めることができないからだ。私たちは説明のために言葉(概念)を用いる。これはつまり、まず、対象を代替する言葉(記号)が示され、その後に意味(内容)が遅れてやってくるということだ。

ソムリエが白ワインをテイスティングして「バナナの皮の香り」と言うとき、それはある特定の熟成香を意味している。そのワインがほんとうにバナナの香りがするかどうかが問題なのではなく、この成句は事前に共有されたある事柄を指し示す記号なのだ。記号が提示され、それが意味内容を呼び寄せる。この現場には、いま現に私が味わっているワインの味わいは存在してない。味わいという経験は停止され、切断され、変換され、そこからようやく「説明」が始まる。「経験」が経験のフィールドに存在したままでは、説明することは不可能なのだ。

言葉による説明においては、経験された対象は必ず「不在(absence)」となり、記号により代替され、意味は遅延して届けられる。これはすなわち、説明的な言葉は、ありありと経験されている当の「現前するもの(presence)」と関係することはできない、ということでもある。

それゆえ、恋愛の外で恋愛について説明することは本質的に無意味なのだ。恋愛は恋愛の中でしか意味を保持することができない。恋愛は徹底的に私の経験のフィールドに「現前するもの(presence)」であるからだ。その「現前」以外の場所では恋愛は存在できないのだ。

 

恋と科学

「明らかな事実」という言い回しを私たちは日常的に使う。このとき明らかになっている「事実」とは、「経験された事実」が変換され事後的に(遅延して)説明された部分を指している。「明らかな事実」という表現を、より正確に言い直すなら「経験された事実のうちの、後に記号に変換可能だった部分」ということになる。

「明らかな事実」を目的とする説明において、経験されている当の事実そのものはつねに不在だ。説明は必ず「不在」のものについての説明となる。説明とは、いわば「不在」を現前させることであり、それゆえ、説明は「現前」する事実そのものを見ることができない。それに対して、美や恋愛は、私たちが直接経験する現前の実質そのものである。そのため、客観的説明は、決して美と恋愛に立ち入ることはできないのだ。

さらに言うなら、科学は恋を土台として成立したものだ。科学的正確さを根拠づけているものは、恋愛と同じ本質のものであり、それゆえ科学による恋の説明は転倒したアポリア(難問)となる。

恋と科学。2,400年前にプラトンが『饗宴』や『パイドロス』などの対話篇を書くことでこの問題を取り出して以来、西洋哲学は常にこの問いと関係してきた。そしてロラン・バルトの『明るい部屋』がその主題の中心に据えているのも、やはりこの問題なのだ。

芸術的感動もまた恋愛と同様に「現前」にしか存在できない。そして、どんな感動的な音楽であっても終わった瞬間に痕跡を残さず消え去るように、あらゆる芸術的感動はつねに霧散し、私たちの手からこぼれ落ちていく。

作品を言葉で語るのはこの芸術的感動を「現前」のまま保ち捕らえ続ける試みなのだ。それは恋に落ち、恋を生きることと極めてよく似ている。言葉が交歓の喜びを生み、作品は私のほうへと振り返り、そしてその視線で私を射る。その瞬間、私の人生の意味は変化している。

美術を語ることは人生を変える。より正確に言うなら、その瞬間に人生は変わっているのだ。恋を生きるときに生の意味が一変するのと同じように。

You Don't Know What Love Is

When you hear music, after it's over, it's gone in the air, you can never capture it again.

 Eric Dolphy 'Last Date'

 

恋人

私が恋した相手は大きな謎だ。どれだけ望んでも私には手を触れることができない。そしてその相手が私を視界の外に追いやり、歩き去ったとき、私はひどく苦しむ。

だが恋の外(客観的現実)の自分の姿がどれだけみっともなく無様であっても、自分が愛を経験したことを自分に対して取り消すことはできない。それが愛でなかったふりをすることはできない。どれだけの後悔があったとしても、どれだけの痛みや苦しみがあったとしても、自分が愛を生きたことを、自分に対してなかったことにはできないのだ。

言い訳を並べ、忘れようと努め、そして説明を与えてしまい込むことはできる。そうしなければ、私たちは現実の日常を生きることができないだろう。だが恋を説明しようとする時、恋はもうどこにも存在しない。常に不在の現前である「説明」は、現前そのものである恋には決して触れることができない。だが私たちが人生の意味と出会うのは、客観的説明の中ではなく、自分が愛を生きたことを知り、それを受け入れるときだ。

美術館を出れば日常に戻ることができる。その点で、美術批評は恋よりいくらかは安全だろう。だがそれでも、作品と深く出会い、癒えない傷を負うことはあるはずだ(ラオコーンが地中から出土したとき、ミケランジェロはその現場にいた)。人間はそうやって過去の美術作品と出会い、そして自らも作品を作り出してきた。

作品を言葉で語ると人生が変わる。
美術批評。作品を言葉で語ることとは、このような経験にもなり得る。

そして私たちの耳にはどれだけ異様で荒唐無稽な言い方に聞こえたとしても、私たちの「客観的現実」を根拠づけ支えているのは、恋と同じものなのだ。

 


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  1. 『絵画の見方』 Looking at Pictures (1960 & 1972) ケネス・クラーク ↩︎