アート批評ワークショップと読書会

 

先日のアート批評ワークショップでサロン画(アカデミック絵画)を取り上げた参加者の方が、SNSで感想を書いてくれました。転載の許可をいただいたので、紹介したいと思います。

 


 

美術に対する恐怖感から解放される

 

 美術館に行って絵を見るのが恐かったわたしを、解放してくれた東京オルタナ写真部のアート批評ワークショップ読書会

 「絵を見るのが恐い」なんていうと、みんな「こわがることなんてないよ。好きだと思うものを見ればいいし。いいなぁとか自分が感じるように感じればいいんだし。」って言ってくれる。わたし自身もそう思っていたというか、そう言い聞かせて美術館に「今度こそは」と挑んできてた感じ。例えば、色遣いが好きとか、雰囲気が好きとか。ドガだったりスーラだったりが好きとか。

その時々でそれなりに好きだと言えるものはあるにはあったけれど、いつもどこかその「好き」に確信が持てずにいる感じだった。美術展に行ってはみるものの、絵を前にして自分の視点が定まらない不安感を拭うことはできなかった。熱心に絵に顔を近づけて筆遣いを見る人やメモを取ったりする人を横目に、「今回もやっぱりダメだった。わからなかった」と思って帰ってきてた。

 「絵を見ても、よぉわからん」というのが正直な気持ちだった。「有名だから」とか「人気だから」「初来日だから」とかの事前の評判で見に行ったら、ますますわからなくなる感じだった。その「よぉわからん」の「わからん」が、何についてわかってないのかもつかめない感じだから、見に行かない方が心穏やかに過ごせるわけ。実家には子どもの頃から「西洋美術全集」とか「○○美術館」とかいうハードカバーがあったりしたんだけれど、また「わからん」の上塗りになるのが怖くて、残念ながら手を伸ばすこともしていなかった。


 ワークショップでは、まず自分の目に見えているものを全部、文字にして書いてみた。景色の中に何がどんな色で、どんな大きさで、どっち向いて描かれているか、、、とか。そうすると、自分の目がどこに一番ひきつけられているのかもはっきりして来て、見落としている物にも気が付いて、画家が何を描こうとしたか、なぜ描こうとしたか、とか、なんとなく「推理」が頭に浮かんでくるから不思議なもの。一番大事なのはここまで。自分の「推理」を持つこと。


 それを軸にして分析していこうとすると、おのずとその画家のこと、その時代のことをいろいろ調べたくなってくる。調べると違うことが見えて来て、他の画家や他の作品と比べたりしていると永遠に広がっていく感じがする。そのうちネットで出て来る画像では不明瞭で満足できなくなって、もう一度実物を見にまた美術館に戻ったりして(そのために週末は朝早く出かけたり、閉館時間が遅くなる金曜日は夜に予定を入れたくなかったり)、いろいろ生活も変わった。


 このワークショップでいちばんわたしが救われたことは、私の推理に”まちがい”はないということ。といってもそれが「正解」ということでは決してなくて、私には何が見えて何を感じたかをできるだけ正確に共有することだけが期待されている。それを他の参加者もいっしょになって、その時代はこういうこともあったよとか、こういう影響も見えるね、とか、こっちの小物に意味があるんじゃないか、、、と展開していくことになる。もちろん、最初から知識が豊富な人たちもいるけれど、その知識は議論を高めるために使われるのであって、議論の相手をやり込めるために使われたりしない。

 

《ド・ラ・パヌーズ子爵夫人の肖像》レオン・ボナ 1879年  国立西洋美術館蔵


 このいわゆるサロン画を批評の対象に選んだことを「問題」にされて批判されることもないし、それどころか私がなぜ惹かれたのか、その個人的な感想を生み出すこの個人的な作品をどう批評することができるのか、こうして考えようと受け入れてもらえる。正しい議論のあり方に支えられて、私は美術に対する恐怖から完全に解放されたという感じ。


 「好き」でなにがいけないの?って、いけなくはないんだけれど、その「好き」がどこから来ているのかきちんと知ることで、自分の「好き」をどう伝えるかも変わってきた。「いいね」ひとつでは伝えられない「好き」を伝えられるように言葉と表現を使っていこうと思う。

 

@Chiaki Nishi on Facebook

 


 

「本やメディアで取り上げられている作品が評価されるべきものだ」、あるいは「作品の評価は自分の好き嫌いの感覚で決めていい」。わたしたちがふつうにアートを評価する方法だと考えている、このどちらも結局は場当たり的な言葉しか生みません。そしてそのような場当たり的な気持ち良い言葉を多くの人が使い始めると、ていねいに切実に見て考えようとする態度は抑圧されていきます。この参加者が長い間「美術館で絵を見るのが怖い」と感じ続けてきた理由はそこにあります。

場当たり的な言葉に覆い尽くされてしまうと、私たちはほんとうに自分にとって大切なものについて考える言葉を持てなくなってしまいます。東京オルタナ写真部のアート批評ワークショップと読書会は、切実なものを考えるための言葉をつかみ直すための試みとして始まりました。これは、多数を頼みにした安全な場所から発せられる言葉に抗いながら、自分の言葉を見つけていく挑戦とも言えます。

ここで紹介したのは、実際に私たちのワークショップに参加してくれた方が書いてくれた感想です。この人は、美術館で絵を見る恐怖感から解放されたと書いていますが、実際は、自分の言葉で考えることを禁止する抑圧から解放されたのではないかと思います。もちろんこの抑圧は禁止として明文化されたものではありません。しかし私たちの身の回りに、無関心、無視、黙殺としてこの抑圧は確実に存在しています。自分自身で感じ考えることが怖いとき、ひとは他の人がそれをすることも同様に嫌悪します。

 


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