「好き嫌い」だけが価値だろうか

 

「作品」や「表現」というものは言葉で表すことができない。だから結局は「好きか嫌いか」しか価値基準はない。

写真表現のワークショップを開催していると、わりとよく聞く言葉です。

確かにこれに反論することは難しいように見えます。しかし表現する上の基準は本当に「好きか嫌いか」しかないのでしょうか。もしそうだとすると、作品を制作することは自分の好き嫌いを人に押し付けるだけの無意味で迷惑な行為だということになります。それに、「芸術」は作品の価値を釣り上げるための詐欺行為でしかない、ということになってしまいます。

極端なことを言っているようですが、もし「好き嫌いしか価値基準はない」のが本当であれば、「作品制作は無意味だ」というのは必然的な結論になるはずです。そして私たちがどこかで薄々そういう考えを持っていることも確かだと思います。

 

シンディ・シャーマン「無題」1982年

 

東京オルタナ写真部「プリントスタディ」

 

東京オルタナ写真部では毎月「アート批評」を開催しています。これの目的は「作品を言葉で語ってみる」ということです。

いやいや「作品」や「表現」は言葉じゃないでしょう。と言う人もいます。まあその言い分もわかります。

しかし、例えば「写真は言葉ではない」というのもひとつの「写真論」です。写真において、言葉で表せることとそうでないことの違いは何か、その違いの境界線はどこか、言葉にすると失われるものがあるのか、それはなぜか…などなど、「写真は言葉ではない」というひとつの批評からどんどん先に進んでいくことも可能です。「写真は言葉ではない」というのは、そこが言葉の行き止まりではないのです。

私たちは「批評」と聞くと、批判や非難をしたりされるような気持ちになりがちで敬遠したくなります。しかし成功した批評は、作品をより深く理解することができ、また自分が知らなかった世界を開くことにもなります。しかし残念ながらわたしたちは自分の感覚や作品そのものを言葉で表すことが得意ではありません。だから自分の作品制作でもとても悩み、人の言うことに惑わされがちです。

そう、「アート批評」はわたしたちがとても苦手とする、この「批評」を練習する会なんです。

  

Cour du Dragon ©Eugène Atget

 

言葉を持つこと

 

私たち東京オルタナ写真部は、手作業の写真の新しい表現を探って作品を制作するアマチュアの(ゆるい)グループです。

こういうスタンスで作品を作るということは、「いいね!」を押してもらう数を競うようなこととは、ちょっと異なる場所で作品を作ることになります。作品の前に長い時間立ち、その作品に打たれる経験は、実際に作品の前に立つことからしか始まりません。私たちはその体験のために制作しているとも言えます。

しかし残念ながら、そのような誠実さで制作された作品を評価する文化や言葉を私たちは十分に持っていないように感じます。グループ展に見に来てくださった方で、作品に感銘を受けながらそれを言い表す言葉が見つからないという人もしばしば見かけました。

「いいね」「だよね」「ウケる」「ありえない」これ以外の評価の言葉を、私たちは持つべきだと思いますし、そしてその言葉を恐れず述べる文化をいつか持てるようになればいいなと思います。そしてさらに、そのような言葉を持つことは、作品を制作する上でも確かな支えになると思われます。

繰り返しますが、批評は、批判や非難ではなく、言葉で新しい場所に行くための方法です。

東京オルタナ写真部「アート批評」は、できるだけ毎月継続的に開催するようにしていきます。ご参加お待ちしています!