アートはただ感じればいい、言葉はいらない?
先日このような内容の少し長文の投稿をSNSでみかけました。
「写真はクラシック音楽の英才教育と同じで教えられるものじゃない。
評論家などというのは、なにも理解していない。
見えないものを感じるのが優れた写真家だ。」
多くのひとがこれに「いいね」をしたりシェアしていました。この投稿文を読むと、この人は次のことを前提していることがわかります。
- 作品がいいか悪いかは自分が見ればわかる。
- 評論なんてものは意味はない。
- アート表現に言葉はいらない。言葉で考える必要はない。
- アート表現は教わるものではない。
言いかえるとこのような芸術観です。
- アート表現は、学ぶ必要はなく、
- 考える必要もなく、
- ただ感じるままにやればよくて、
- 作品がいいか悪いかは自分が決めていい(自分が見ればすぐわかるから)。
なるほど。これは楽ちんでいいですね!この投稿主は日本の美大で教えていたことがあるそうです。その経験からこういう考えにいたったのだそうです。そしてこのひとに限らず、いまの日本では、ほとんどの人が芸術に対して同じような考え方を持っているように見えます。
ところで、最近こんなことを言うひとがいるので紹介しておきます。
ドイツでは技法や表面的な綺麗さやクオリティなどだけでは評価されません。大学では座学も多く、美術史や哲学、心理学の講義がみっちりとあります。
これはつまり、ドイツアートにはそれらの知識から来る考え方がとても重要だということを表しているように見えます。
ドイツでは美術史や哲学や心理学、宗教観などの思想的な部分や、個人のアイデンティティーを優先するようなスタイルがよく目につきます。
作品の内容を語らないほうがよいとされがちな日本ですが、ドイツでは論文やアーティストステートメントをベースとして、自分の作品について説明するプレゼンの機会がとても多いです。
プレゼンでは生徒間や教授からの質問が飛び交い、意見交換を行うのが普通で、30分以上自分の作品について話すことは珍しくありません。
これはMasaki Hagino(萩野真輝)さんのブログ記事からの引用です。Masakiさんは、ヨーロッパで活動している日本人画家です。彼のブログは、日本の美術関係者に確実に衝撃を与えています。こちらから読めます。↓
東京オルタナ写真部のアート批評ワークショップ
さてところで、東京オルタナ写真部ではアート批評のワークショップを開催しています。
もし先のSNS投稿主が主張しているように、アート表現に言葉は必要なくて、評論なんて無意味だというのが正しければ、私たちはとてもナンセンスなことをしていることになります。なぜなら批評なんて表現にとってはまったく役に立たないもののはずですから。
では実際はどうなのか。私たちのワークショップで何が起こっているのかを、少し紹介してみたいと思います。
私たちのワークショップで起こっていること
このアート批評ワークショップでは、まず最初にディスカッションを行います。アートとか表現ってなんだと思う?みたいな感じですね。すると、だいたいさきほどのような芸術観になります。これはここまで。ワークショップが全部終わった最後に、もういちど同じディスカッションをしてみて、同じ結果になるかどうか試してみることにします。
それから1時間ほどは、言葉の使い方について、簡単な実習を交えながら解説します。
そして、この絵を見てもらいます。
情報はいっさいなしです。3分ほどで、この絵に何が描かれているかを書きだしてもらいます。そしてそのメモをもとに、口頭で説明してもらいます。
もしよかったら、いまこれを読んでくれているひともやってみてください。書き出す項目は3つほどでかまいません。もしこの絵についてすでに知っていることがあれば、それを反映しても大丈夫です。
*
「わたし、ものを知らないし、言葉も下手だし、ぜんぜん頭よくないんですけれど、このワークショップに参加できますか?」
というひとが先日のワークショップにいました。その人はこの絵について、ゆっくりと言葉を選びながら、こんな内容の発表をしてくれました。
この絵はモネの作品だと思われる。海か河の風景が描かれている。だがこの絵は非現実的であり、だれかの夢のようである。
はっきりと判別できる手前の小舟に対して、遠景は深くかすんでいる。船や工場のようなものが描かれているが、形状は判然とせず、空と水面に溶け込むように描かれている。全体的にもうろうとした印象のこの絵の中で、太陽だけが明確な輪郭で描かれている。
しかし、深いかすみを通して見る太陽は光が散乱するため、現実にはこのような明瞭な輪郭にはならない。そのため、この太陽は非現実的で、異様な象徴性を帯びている。はっきりと意味がわからないのに、強烈な印象でせまってくるもの。わたしたちは、そのような光景を、まさに夢の中で見る。だからこの絵は、現実の光景ではなく、誰かの夢を描いたもののように見える。
いかがでしょうか?
この言葉を聴いたあとに、もういちど絵を見直してみて、新しい発見を感じないでしょうか?自分が見過ごしていたこの絵の魅力を感じないでしょうか?この絵がいま新しく現れてくるように感じないでしょうか?
この発表を少し解説してみます。
- まずこのひとは「現実の風景を描いているが、この絵は非現実的で夢のようだ」という主張をします。
- そしてその主張を、説得力のある根拠を示しながら合理的に説明していきます。
だから、この言葉を聴くと、この人が発見したこの絵の魅力を理解することができるのです。これが批評や評論と呼ばれるものだと私たちは理解しています。
この発表をしてくれたひとが、少し調べる時間があれば、次のような言葉でこの評論をまとめてくれたかもしれません。
「
一般にモネは、描く対象の形態を放棄したことで、後の抽象絵画の先駆だと評価されている。しかしこの作品に現れているのは、対象の形態と象徴性を究極までとらえようとする具象画家である。
ここに、象徴派のエドヴァルト・ムンクやさらに後のシュルレアリスムへの影響を見て取ることも、また可能ではないだろうか。モネの先駆性はその後の具象絵画に与えた影響からも検討されるべきであろう。
」
ここで紹介したのは、ひとりのふつうの参加者が、ワークショップの1時間のレクチャーの後に発表してくれた美術批評です。わたしは正直に言うと、この批評を聴いて興奮して鳥肌が立ちました。
そして実際のワークショップでは、これが単独の発表ではなく、複数の参加者によるディスカッションになるので、もうむっちゃおもしろいです!!
じつは、このアート批評ワークショップは、東京オルタナ写真部のワークショップのなかでいちばんおもしろいのではないかとも思っています。参加して人生が変わったとまで言ってくれたひともいます。おおげさでしょうか?わたしは、それわかります。この批評ワークショップでは、わたしもいつも、ほんとうに自由になる感覚を得られるからです。
このワークショップの体験記を書いてくれた参加者がいます。紹介しておきます。
そして、このワークショップを経験した後では、わたしたちは、ある作品について見て感じた印象だけで判断できるとは、とても思えなくなっています。作品に魅了されたとき、その作品は謎だらけの一冊の本のようになって現れます。そしてわたしたちは、わくわくしながらその本の最初のページをめくるのだと思います。表紙だけ見て本の中身がわかるひとがいないのと似ていますね。
作品制作においても同じで、感じるままに制作すればそれでいいとは、もう考えられません。制作プロジェクトの意味を考え、コンセプトを持ち、作品を言葉でプレゼンテーションできるようでなければ、ほんとうに優れた作品は作れないと考えています。
もしかするとわたしたちは、「感じればそれでいい。言葉はいらない。」というイデオロギーに閉じ込められていたのかもしれません。それはとても風通しが悪く不自由なことではないでしょうか。
言葉はただの道具です。自由になるために使えばいいのだと思います。ただし、道具には適切な使い方があります。ですから、このワークショップでは言葉の使い方のガイドをしています。関心を持っていただけた方はご参加していただけると、とても嬉しく思います。
音楽は才能で勝負するもの、教えられるものではない?
ここからは余談です。
最初に紹介したSNSの投稿文にもありましたが、クラシック音楽について、わたしたちは次のような印象をもっています。
「音楽は才能で勝負するもの。だから勉強して学んだり、人から教わったりするものではない。」
たしかに、こういう「お話」はよく聞きますね。
たとえば、
森に捨てられていたピアノを弾いて育って世界最高峰のコンクールで優勝とか。
養蜂家の父に連れられ移動生活をしていて音楽教育を受けていない天才ピアニストとか。
わたしたちはこの手の物語が大好きです。
でもこれ、ほんとうでしょうか?どの程度のリアリティがあるのでしょう。
私が少し知っている人に世界的に評価されて活躍している音楽家がいますが、彼らを見ていると、とにかく勉強しています。ヨーロッパの歴史、政治史、文化史、音楽史、作曲家の個人史、歴史的な演奏方法や歴史的楽器の研究、そしてもちろんそれらを学ぶための語学の勉強。そしてこれらの研究にもとづく演奏を学ぶために、様々な演奏家に教えてもらっています。
これは少し考えればとうぜんのことです。彼らが演奏するのはほとんどが100年から300年前のヨーロッパで作られた音楽です。歴史研究の成果を学ぶことは、演奏の才能とは無関係です。そして先行研究の成果を学ぶことをせずに、クラシック音楽の演奏ができるわけがないのは言うまでもないことです。なぜならクラシック音楽を演奏することは、歴史研究でもあるからです。
そしてまた、彼らはインタビューなどでは自分の演奏のコンセプトを明確に言葉で述べます。
また、世界の若手のトップ演奏家たちの多くは、ダブルディグリー(複数学位)によって音大以外の大学にも籍を置き、哲学などを学んでいます。
「音楽は感じるままに弾けばいい。才能さえあれば見事な演奏ができる。言葉はいらない。」というような感覚は、世界の音楽界のどこにもないように思えます。しいて言えば、日本のマンガや小説の中だけではないでしょうか。
先のSNS投稿にも「音楽の英才教育と同じで(表現は)教えられるものではない」と書いてありました。それを、日本とヨーロッパで指導を受けながら音楽を学んでいる中学生に言ったところ、こんなコメントをいただきました。
「近頃のおとなは、海で魚が切り身で泳いでいると思っている」
近頃のおとなのみなさん、がんばりましょう!
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