東京オルタナ写真部では「プリントスタディ」という批評会を開催しています。ある作品や展覧会を取り上げて、感想や批評を述べ合いディスカッションする批評のワークショップです。今回取り上げた展覧会は、「写真の起源 英国」(東京都写真美術館)です。
「写真の起源 英国」展について
この展覧会は、19世紀のイギリスの写真を紹介する内容です。
写真は1839年に発明されたとされていますが、これは発明の名乗りと特許申請をした人が出現した年です。まずフランスのダゲール。彼の「発明」がフランスの科学アカデミーで発表されると、欧米の各地から「待った」がかかり、自分が先に発明したと名乗る人が多く現れました。その代表がイギリスのヘンリー・フォックス・タルボットです。この展覧会はこのイギリスにおける写真の発明から普及までを取り上げた展示になっています。
写真史って何だろうか
歴史の中で変遷するもの
プリントスタディでは、まず展覧会を見た感想を述べ合うところから始まります。今回もいくつかの観点からの感想が出ました。
ひとつは主題の変遷。
「技術的関心で撮影されていた写真が、絵画的なテーマ(特にピクチャレスク的なテーマ)を帯びるようになる、その移り変わりに注目しながら展示を見た。」
そして技術の変遷。
「初期の写真技術である塩化銀紙は、やがてさらに細密な描写ができる鶏卵紙へと移っていくが、洗練されていく塩化銀紙と、発明まもない鶏卵紙が、ほぼ同じクオリティの時期がある。」
なるほど。このどちらも面白いトピックであることは間違いないのですが、実は、この展覧会の批評としては、次の感想がもっとも的確であるように感じました。
印象に残らない展示
ある参加者がこんな感想を述べてくれました。
展示作品がさらさらと流れていくだけで印象に残らなかった。
この感想が面白いのは、これを述べた参加者は「よくわからなくて退屈だった」と言っているのではないことです。むしろ逆で、この人は、展示されている写真はどの写真にも新鮮な驚きを感じたと言っています。
「当時の服装の人が写っている写真は、その人が本当に実在したこと、つまり、そのような人々が生きて生活していたことを直接的に証明している。自分が知らない時代の知らない場所の人々の姿を見て驚きを感じた。」
「これらの人々にとって、この写真を手に取るとはどういうことだったのか。誰がどのように手にすることができたのか。この写真は彼らにとってどのようなものだったのか。どんな意味のあるものだったのか。それを知りたいと思った。」
「しかし、この展示ではそこにほとんど触れていない。ただ、年表の項目のように写真を並べて見せているだけだった。展示されている個々の写真にはそれぞれの驚きがあるのに、展覧会のキュレーションはそれを無視して「歴史の流れ」を構成してみせているだけのように感じた。」
「歴史」は年表ではない
これは厳しいですが的確な批評だと思います。この展覧会を見た私も全く同じ感想を持ちました。この展覧会に展示されている写真は非常に興味深い一次資料ばかりです。一次資料というのは編集や加工がされていないために、それが存在したことを疑えない資料のことです。そしてそのような一次資料には、当時の意味がわからなくなっているものが多くあります。この展示の場合では、「当時の写真の意味」などがそうです。
・発明者が手にした写真
・普及し始めた時点の写真
・現在の私たちの写真
これらが同じ意味であるわけがありません。そして現在の私たちにとっては、現在の写真以外の意味はわからなくなっています。しかしこのキュレーションでは、一次資料を図式にあてはめるように構成している節があります。つまり次のような図式です。
「写真が発明される」→「写真が普及する」→「日本に伝わる」
年表はそれ自体には意味はありません。しかし項目を構成することによって、図式を作ることはできます。しかし図式的な歴史理解とは、知らないものや、わからないものを無視するということです。
この参加者が「印象に残らなかった」と言うのは、この展覧会では、一次資料を前にしているのに、それが当時帯びた意味についてはスルーするような構成になっていたからかもしれません。
ヴィクトリア朝の時代を生きたのはどんな人だったのか
ではここに展示されている写真や資料から、私たちが知りたかったことは何でしょう。いくつか挙げてみたいと思います。
- ヘンリー・フォックス・タルボットとは何者なのか
- タルボットはなぜ新婚旅行にイタリアに行くのか
- なぜ旅行先で遺跡や遺構をスケッチするのか
- なぜ写真の研究をしたのか
- 写真の研究のほかには何をしていたのか
- なぜ特許と訴訟に熱中したのか
- なぜ教会の廃墟を撮影するのか
- 博覧会とは何なのか
- この時代の芸術とは何か
- この時代の「写真は芸術か」という議論では、何が議論されていたのか
つまり、ヴィクトリア朝という時代とヴィクトリア朝の人間とはどのようなものだったのか。そして彼らにとって写真はどのように受け止められていたのか、という疑問だと言えると思います。もっとざっくり言うと、彼らは何を考えて何をやっていたのか、ということです。
ヴィクトリア朝のイギリスの人々は、現在の日本に生きる私たちとは、全く異なる考えを持ち、異なる人生を送った人々です。この大きなギャップを無視してしまうと、どんな一級資料であっても、ただの無意味な年表の項目になってしまいます。
そしてこの展覧会の構成は、現在の私たちの写真を図式的に説明するために、歴史的写真をその固有の意味を無視して年表の項目のように扱うことにとどまっている。と言えるかもしれません。
これはやや厳しい見方かもしれませんが、せっかく素晴らしい資料を集めたのだから、展示内容も、もうちょっと歴史的理解に踏み込んでほしかった、というのが私も正直な感想です。従来の展示を見てきても、東京都写真美術館の企画は歴史研究の側面が弱いように感じています。実証と年表だけが歴史ではないですからね。
レイコックアビーのヘンリー・フォックス・タルボット
以前、写真の発明者タルボットが住んでいた家に行ったことがあります。そのときに撮った写真を交えて紹介する記事を書きました。タルボットとはどんな人だったのか?
「ラファエル前派の軌跡」展
イギリスで写真が発明されて普及した時期とヴィクトリア朝の時代はおおむね重なっています。東京都写真美術館の展示では、彼らの精神を垣間見ることはできなかったのですが、それを補うタイムリーな展覧会が開催中です。
ラファエル前派は、ちょうど同じ時期のイギリスの芸術運動です。ジュリア・マーガレット・キャメロンやルイス・キャロルなどのイギリスの初期写真家たちにも影響を与えました。
次回のプリントスタディでは、この「ラファエル前派の軌跡」展を取り上げます。