ストーリーが理解できない映画
映画館で初めて見たときの率直な感想は、体感理解度20%…。映画『TENET』は、話の内容がほとんどがわからないまま終わってしまった。気合を入れて大画面大音量のIMAXシアターで見たので、よけいに出会い頭に車にはねられたような気分だった。釈然としない。
この複雑なストーリーを分析し、理解するために寸止め上映会を始めた。複数人でディスカッションしつつ、ショットごとに一時停止しながら内容確認。さらにはコマ単位まで分解して分析したその結果、明らかになったことは…映画をあまりに細分化して観察すると、映画そのものが行方不明になってしまうということだった!映画は近づきすぎると、映画そのものがなくなってしまう。
映画を見る体験とは何なのか?私たちは映画に何を見ているのか?どうやって終わればいいのか、この上映会…
タリン市のカーチェイス
『TENET』の中でも、もっとも進行が複雑で難解な「タリン市のカーチェイス」。ここで何が起こっているのかがわかれば、この映画のストーリーは理解できるはず。ネット上にもこのシーンを解説したブログ記事は多数あり、YouTubeにも解説動画がいくつもある。
それらの解説記事はどれも正しいように思われる。しかしそれは、辻褄を合わせるために必要な内容を解説者が想像で補い、収まりよく編集された説明だからだ。彼らはストーリーが破綻しないような解釈を競っている。いわばこの映画の「あり得るべきひとつの投影図」なのだ。
実際の映画を見る体験は、ネタバレ解説を読むこととはかなり異なる。私たちが映画だけから理解できることはなんだろうか?映画そのものは何を見せているのだろうか。それを理解するために、このシークエンスのストーリーボードを作ってみた。
通常、ストーリーボードは映画制作のために作られる。それをもとに完成した映画を観客は見るのであって、ストーリーボードが目に触れることはない。しかしここでは逆に、シークエンスの構造を明らかにするために、観客である私たちが映画のパーツを使ってストーリーボードを作り、シーンを再構成することにした。
ストーリーボードを作る
私たちのストーリーボードは下記リンク先で公開しているが、かなり重いファイルなので開くことはおすすめしない。
このストーリーボードの目的は、映画の「現在」に起こっている物事を整理すること。そのため、2列のストーリーボードは同じ時間になるように調整した。各行が映画の「現在」。これで通常の時間軸と、時間を逆行する人物や物の関係を明らかにできる…はず。
そしてこのストーリーボードを元にシークエンスを解析した結果は、
1:物事の順序は整理された。
2:大量の矛盾点が明らかになった!
時間逆行するストーリーの矛盾
非常にゆっくりとこの映画を見ていくと、大量の矛盾が明らかになる。ここで言う矛盾とは、物語の上で一貫性がない点や、人物の行動の不自然さなどを指す。SFなのだからフィクショナルな要素はあって当然。しかし意味不明な出来事やでたらめな飛躍があると、ストーリーを自然な流れで受け取れなくなる。そのような矛盾点は細かいものから深刻なものまで挙げていくときりがないが、大ざっぱに指摘しても以下のようになる。
時間逆行する人物たちが従っているルールが明確ではない
- 登場人物たちは「過去を破綻させないためのルール」に自主的に従うが、その基準がまったく明確ではない。
- 生命を危険にさらして過去破綻を回避する行動をするが、同時にそのルールを簡単に破っている。すなわち登場人物の行動原理に一貫性がない。そのため、時間逆行するときに彼が何に制約を受けているのか理解できない。
- 例として:
- 主人公は停車している自動車の後部座席に転がっているプルトニウムを回収するだけでよかった。そもそもカーチェイスは不要。
- カーチェイスを行った場合も、プルトニウムの回収は味方チームにより可能。プルトニウムが敵の手に渡る必然性はない。
人物の行動が自然な流れになっていない。
- 逆行セイターは、逆行カーチェイス中にカウントダウンを始める。その次の瞬間に運転を操作して主人公の車を横転させ、そして瞬時にカウントダウンの続きに戻っていることになる。連続した短時間でこのような行動をすることは非常に不自然。
セイターが持っている情報と行動に整合性がない。
- 順行セイターは逆行セイターから情報を受け取って行動しているが、情報のタイミングと行動のタイミングが大きくずれている。そのため、セイターの行動の意図が不明になっている箇所がある。
時間が逆行する範囲が任意に変化する。
- 時間が逆行する空間とモノの問題
- 時間逆行する人物が車のエンジンをかけると、その車も時間逆行する。なぜ車だけが逆行するのか?
- 逆行人物に乗り捨てられた逆行車は、そのまま逆行しつづけるのか?
- 時間が逆行する時間の問題
- 逆行弾でガラスに開いた銃痕は、そのまま逆行し続けるのか?するとそのガラスが製造された時点から銃痕はあることになる。
- もし逆行が「風化」するのだとしたら、未来からセイターに送られた金塊も「風化」を受けることになる。セイターは金塊を受け取ることができない。
近づきすぎると映画は消える
タリン市のカーチェイスシーンは、ストーリーの時間軸が錯綜し非常に難解なため、ストーリーボードで整理することでようやく物語の進行を把握することができた。しかし同時に、映画のストーリーが成立しなくなるような、つじつまの合わない矛盾点も数多く明らかになった。
だがこれは、私たちが目的にしていたことだろうか?
ストーリーのあら探しをすることが「映画を理解する」ことではない。なぜならどんな物語もフィクションを含んでいる。荒唐無稽であることは映画の欠陥ではない。むしろそれは映画の本質だ。
映画の分析が、ストーリーの破綻を見つけることを目的にしてしまったなら、それは批評として完全に失敗している。この分析方法は私たちの目的に合っているとは言えない。少なくとも分析の手法の使い方を間違っているのではないか。
映画を理解することとは、映画のパーツをバラバラにして解剖することとは異なる。映画を分解していくと、映画そのものが行方不明になってしまう。映画に近づき解像度を最大限にして分析しても、そこには理解するべき「映画を見る」という体験はなかった。近づきすぎると映画は消えるのだ。
映画という体験、物語という体験
やはり最後まで見ると、映画を見た気になる。それは、なぜなのか。
映画を最小パーツまで分解した分析で失敗した後、上映会では映画を最後までいっきに見ることにした。
TENETチームが回転ドアを持っていたこと(だったら危険を犯してキャットをオスロ空港に運ぶ必要はなかった!)など、新たな矛盾は出てくる。だけど、もう何も言うまい。ほらニールの最後の言葉だ!男達の別れだ!美しい友情の終わりだ!
あーやっぱりいいねー。いい映画だなー。あ?最後の戦闘シーンはいったい何がどうなってるのか?もう言うな!いまは言うな!
いやちょっと待って。これっていったいどういうことなのか。何にも理解できなくてこのなには何なのか?映画ってなに!?やっぱりこの映画はフェスなのか?
仕事帰りに毎日映画館に『TENET』を見に行っていたという人が、この寸止め上映会に参加してくれた。初回に彼は「この映画はフェスだと思って楽しむべきだ」と言った。
一周回ってからいまさら言うけれど、正しい。全く正しい。この感動はフェスだ。間違いない。
映画を見ているときにわれわれが見ているもの
ストーリーをほぼ全く理解できないのに、なにかしっかりと映画を観たような体験をする。満足度と言ってもいい。アクション、友情、男たちや男女の出会いと別れ、愛情と裏切り…。しかしストーリーは全く理解できていない。いったい私たちは何を見たのだろうか。
『TENET』が他に類を見ない独特で複雑な構成の映画であることは間違いない。しかし、映画監督のノーランは決して映画の解体を試みたわけではない。『TENET』は難解だが、現代美術のような難解さとは質が異なる。ストーリを無作為に切り貼りするカットアップで知られるウィリアム・バロウズのような物語の脱構築を目指したわけではない。むしろ逆に、『TENET』は極めて保守的な映画の枠の内側にある。
『TENET』は、そのナラティブとしては歌舞伎や大衆演劇のように、観客がすでによく知っている筋をなぞり、決め打ちのポーズ(見栄)を決めていくことで、観客が持つ期待感を解決していっているのではないか。大衆演芸的だと言っていいのかもしれない。だとすると、このストーリーの複雑さは、この映画が陳腐な「お約束」の寄せ集めでできていることをごまかすための目くらましだったのか?
「フェス」としてのアート体験
映画『TENET』の挑戦と成果はなにだったのだろうか。ひとまず、この作品は、映画という体験の迷宮を浮かび上がらせたと言えるのではないだろうか。
ストーリーを解析しようとすると映画体験は霧散してしまう。だが逆にストーリーのディテールをほとんど理解できなくても私たちは映画を楽しむことができる。映画の本質は必ずしもストーリーを理解することにあるわけではない(!)。物ごとを大げさに言うつもりはないが、これは驚いていいのではないか?驚くべきことではないのか?
アクション映画、恋愛映画、バディもの、時間テーマSF…私たちはそれらの映画の類型を自分の好きなように『TENET』に投影して見ただけなのだろうか?だとすると、類型さえあれば映画に物語は必要ないのか?それが「フェスとしての映画体験」の内実なのか?いやだが待て。そんな説明もまた映画を見失っているのではないか。
旅行先のガイドブックを買って読むことと、実際に旅行するのが同じでないように、物語の類型の分類にも映画は存在しない。それを言うなら、物語そのものにだって同じことが言える。テーブルの上の本は物語ではない。そのページを開いて私たちが読むとき、物語は初めて姿を現すのではないか。そして物語に夢中になっているとき、私たちは「フェス」の中にいる。物語とは人によって生きられるものなのだ。
参考資料1:物語の作り方は6つしかないことがビッグデータ解析で判明
物語は全体的な感情の起伏を6つのパターンに分類できるという記事。この記事の興味深い点は、すべての物語が分類可能であることではなく、感情の起伏があることがすべての物語の必須の条件だということだろう。感情の起伏を生むように構成されていること。それがなくて「フェス」にはならない。
参考資料2:物語理論と翻訳 (講演録:李春喜)
https://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_department/07/165lee.pdf
情報を言葉で描写するのは説明文であって、物語ではない。物語と説明文は異なる。
そもそも人はなぜ物語を語るのでしょう?言語・人種・民族・宗教・文化などの違いに関わ らず、地球上に存在する共同体で、物語を語らない共同体は存在しません。物語がなくても人は生きていくことができそうなものですが、物語を語らない人間はいません。なぜ人は物語を語るのでしょう?そもそもこの問題は物語論固有の問いではなく、人はなぜ歌うのか、人はなぜ踊るのか、といった問題と同様、考古学・民族学・文化人類学といった分野で古くから研究されてきた課題です。
物語理論と翻訳 (講演録:李春喜)
これは非常に示唆的ではないか。
物事を大げさに言うつもりはないが(2回め)、私たちは音楽にも「物語」を見ている。基調となるリズム、スケール、そして和声の緊張と解決が生む感情の起伏。それがないと音楽とは呼べない要素。それは別の姿をした「物語」だと言える。そして、絵画、彫刻、ダンス、写真…およそ「作品」と呼ばれるものにふれるとき、私たちは必ず物語を見ている。映画に限らず、すべてのアート体験はフェスなのだ。
それならいっそ「物語」は人間の認識の構造を規定している何かだと考えるべきではないか。
ここからは、ナラトロジー(物語論)が始まるのか?
私たちは小説や映画のみならず、絵や写真を見る時、音楽を聴く時でさえ、そこに「物語」を読み取ろうとしている。それが私たちの自然な態度となっている。物語とは何なのか?
この上映会で明らかになったことは、物語を分解しても物語は明らかにならないということだった。私たちは物語を楽しむ時、細部を認識して組み立てるという作業だけをしているわけではない。むしろ、物語の楽しみは他の要素のほうが大きい。それが何かを研究する学問分野があり、それがナラトロジー(物語論)と呼ばれるものらしい。
そして、私たちは作品と呼べるものはどんな分野のものであっても、それを見る時に自然な態度で「物語」を読み取ろうとしている。
ということは、写真作品のナラトロジーも存在する。コンセプトや技法はそれ自体では作品にならない。写真が作品になるとき、そこには必ず「物語」が生きられている。
写真作家は独自のナラトロジーを研究すべきなのだ。このフェスでダイブするために。