1982年:『ブレードランナー』
1982年6月、映画『ブレードランナー』公開。
巨大スラムと化した大都市で、人間と見分けのつかないロボット「レプリカント」を人間が処刑する。それまで、荒唐無稽な宇宙の冒険や、科学がひらく明るく完璧な未来を夢見てきたSF映画が、暗く荒廃した世界を描き衝撃を与えた。この映画を構成しているのは「未来の乗り物」「未来の世界」などのSFにお決まりのモチーフだけではない。この映画のもっとも重要なテーマは、記憶、未来、思い出、家族、人生の時間など、人間を人間として成り立たせている基本的な概念とは何か、それを持たずに(奪われて)まだ人間でいられるのか、という問題だったといえる。
2019年:ロサンゼルス
2019年11月、ロサンゼルス。
酸性雨が降りしきる荒廃した街の屋台でひとりの男が刑事に呼び止められた。引退した「ブレードランナー(レプリカント専任捜査官)」のリック・デッカードだった。人間を殺害して宇宙植民地から脱走したネクサス6型レプリカントが地球に潜入した。デッカードは、彼らを見つけ出し射殺する任務を上司から強要される。人間にまぎれたレプリカントを探し出すデッカードの捜査は、あるイメージを手がかりに始まる。それを持つ人間は無自覚に味わい蕩尽し、それを持たざるレプリカントは命と引き換えるほどに渇望したイメージ。デッカードはそのイメージを手にしたときから、人間性の淵の深い狭間へ陥っていく。
1909年:コペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地
国立西洋美術館の常設展に少し謎めいた絵が展示されている。
柔らかい外光が差す静かな室内を描いたその絵の中に特別なものは何もない。テーブル、開いた扉、隣室で小型ピアノを弾く女性の後ろ姿。ほとんど神秘的なほどの奇妙な静けさが漂う。その理由は、この部屋に生活感がまったくないからだ。いやそれだけでなく、この部屋について意味を特定できるものが慎重に取り除かれている。テーブルの上の皿は空っぽで、椅子はひとつしかなく、壁にかかった絵も何が描かれているのかわからない。この住人の生活について私たちは何ひとつ確かなことはわからない。犯罪者が現場の指紋を拭くように、この絵からは個別のものを指し示す意味がきれいに拭い去られている。
だがそれにも関わらず、この部屋の場所はよく知られている。デンマークのコペンハーゲン、ストランゲーゼ 30番地。この絵を描いた画家ヴィルヘルム・ハンマースホイは、妻イーダとともにこの部屋に暮らし、彼の作品の多くはこの部屋と妻を描いたものだった。
2019年:東京、アート批評
東京オルタナ写真部では、2019年からアート批評のワークショップを開催している。写真はビジュアルアートの歴史の一部であり西洋美術と背景を共有している。作品制作する写真家が実践的にアート批評を行うのは自然なことのはずだが、これまでそのような機会は非常に少なかった。
このアート批評ワークショップで、西洋美術館のハンマースホイの絵《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》を取り上げる参加者はこれまで何人かいた。だがこの絵には何が描かれているのだろうか。私たちの議論の一部を紹介してみよう。
まず、絵から直接、確実に見て取れることを挙げていく。
絵から見て取れること
- 壁の絵、楽譜、日常生活に必要なものなど、特定の意味を示すものが何も描かれていない。
- 水平のレベルが微妙にずれている。(絵全体が少し右に傾いているように見える)
- 写真のようなフォーカスが描かれている。フォーカスが合っているのは、手前の皿、テーブル、扉までで、奥にいる人物はピントがぼけている。
- 室内の人物の描き方において、フェルメールの強い影響が見て取れる。
ここから必然的に出てくる関心や疑問を整理する。
関心と疑問点
- 特定の意味を示すものが描かれないのはなぜか。それによって何が実現されているのか。
- ハンマースホイは、フェルメールに何を発見し、何を自分の作品に取り込んだのか。
- ハンマースホイがフェルメールと異なるのはどのような点なのか、それはなぜか。
さて、ではこの絵には何が描かれていると言えるだろうか。その本質的な意味はどこにあるのだろうか。
1664年:ネーデルラント、デルフト
17世紀のネーデルラント(オランダ)の画家、ヨハネス・フェルメールは、生涯のほとんどの期間を故郷のデルフトで過ごした。
彼が生きた17世紀オランダは貿易で財を築いた市民階層が社会を率い、芸術家は市民の屋敷や役所を飾るために絵を描いた。美術は宮廷や教会から解放され、西洋美術史上初めて、風景、肖像、静物、室内という絵画ジャンルが独立した。
ハンマースホイがフェルメールに見出したものは何だったのか。明らかな類似点から見ていこう。
ドアを隔てた向こうの空間に人物を配置する。
人物の手前にテーブルなどの前景を置く。
窓から入る柔らかい光で室内と人物を描く。
楽器演奏をしている人物を描く。
レンズのフォーカス(ピント)を描く。
フェルメールからの「影響」
フェルメールは上に挙げた描き方により、それまでの絵画が扱えなかった主題、人間のプライベートな生活や日常的で親密な関係を絵画史上初めて描くことができるようになった。ハンマースホイが踏襲したものは、フェルメールたち17世紀ネーデルラントの画家が創造した「プライベートな関係を描く図像フォーマット」だと言える。
フェルメールとは何が異なるのか
フェルメールの時代には、描かれるモチーフが修辞的(比喩的)に特定の意味を示すことがあった。たとえば楽器演奏は男女間の愛を象徴している。上の鍵盤楽器を弾きながらこちらを見ている女性の絵の場合は、彼女はチェロを弾く男性を待っている、と解釈できる。
しかし、ハンマースホイの絵に描かれた女性が、愛の象徴としてピアノを演奏していると見ることには無理がある。それ以外にも、壁の絵や楽譜など、特定の意味を示すものが描かれていない。いやむしろ、象徴的に意味を特定する要素は慎重に徹底的に排除されている。
ハンマースホイは何を描こうとしたのか
ハンマースホイは親密な関係を描くフォーマットをフェルメールから借用しながら、徹底的に意味を排除している。
ここまで徹底的に意味を排除して描いているということは、逆に、ここに描かれているものは、それがないと成立しないような最小限のものが描かれていると考えられる。つまり絶対に描かなくてはならないものだけが、厳密に選ばれて、配置されて描かれている。
そうすると、テーブルの上の皿の存在が異質で異様なものとして浮かんでくる。この空の皿はなぜここに置かれたのだろうか。
この絵のタイトルに妻の名前が入っているが、その妻はピントが外れている。この絵でもっともピントが合っているのは、この皿だ。画家は明らかにこの皿を見つめている。そのため、ほとんど意味が不在なこの絵画において、この皿だけが何かを示唆しているように見える。
推論
ハンマースホイは意味を拭い去るように生活の空間を描くことで、生の意味の不確かさ見つめようとしているのではないか。私たちは世界を認識するために意味を必要とする。しかしその意味を支える確かな根拠は存在しないのではないか。ハンマースホイの関心はこのような「意味の謎」にあると、ひとまず言えるのではないだろうか。
そして、親密な関係を描くフォーマットで妻を描くことで、彼は妻である人との関係を支える根拠の不在を見つめているのではないだろうか。この他者(妻)との関係は何によって支えられているのか。何を信じることができるから、自分はこの関係が存在すると確信できているのか。わたしたちの日常の意味とはなにか。それに根拠はあるのだろうか。
テーブルは、画家と妻である人物の間に半ば障害のように置かれている。テーブルは彼女との直接の関係をさえぎり、彼女のもとにまっすぐたどり着くことはできない。
そしてそのテーブルが私に見せるのは、空の皿だ。皿は空虚で、その空虚さを強調して見せるかのようにこちらに向けられている。画家はその皿を凝視し、ここで立ち尽くしている。妻は隔たれた場所で自分の世界に住んでいて、画家の慄きや危機を共有することは決してない。
私たちの生の根本を支える「意味」。ハンマースホイは、その意味の問題を扱おうとした。記憶、未来、思い出、家族、人生の時間。これらはすべて「意味」であり、それらを信じられるからこそ、私たちは自分が自分であり、また自分が人間らしい人間であると確信できている。しかしこれらの意味はある種の幻想でしかない。その意味の根底はどこにも根付いておらず、自分がそうであると信じている人間であるかどうかは、どのような根拠もない。平和で穏やかな自室にいて、画家は人間性の果ての深い淵を前に立ちすくんでいる。
2019年:ロサンゼルス、「レプリカント」
このディスカッションの数日後に、ハンマースホイの絵を取り上げた参加者からメールをもらった。
『
今日『ブレードランナー ファイナルカット』のIMAXバーションをみました。その中で、人造人間であるレプリカントが持っていた一枚の写真が、まさに「プライベートな関係を表すフォーマット」でした。
左の窓から柔らかな光が入り、窓際には表情の読み取れない男のレプリカントが一人。前景として人のいない皺になったシーツのあるベッド。背景としてドアの向こうにもう一つ部屋がありました。後でその奥の部屋にはもう一人、女性のレプリカントが写っていることがわかります。
過去の実体験を持たず、限られた短い寿命しか持たないレプリカントにとっては自分が生きていたという記憶が、まさに「生の根本を支える意味」ではないかと思った次第でした。
』
1982年バージョンの台本ではこのシーンは以下のようになっている。
*
[Deckard and Gaff inspect the apartment. Deckard finds a scale in the bathtub and some family photos. Gaff watches quietly, folding an origami statue of a man with an erection.] Deckard (voice-over): I didn't know whether Leon gave Holden a legit address. But it was the only lead I had, so I checked it out. Whatever was in the bathtub was not human. Replicants don't have scales. And family photos? Replicants didn't have families either. [Leon meets Roy outside of phonebooth] Roy: Time enough. (pause) Did you get your precious photos? Leon: Someone was there. Roy: Man? (pause) Policeman?
*
(デッカードとガフはアパートを捜索する。デッカードは浴槽のなかの動物のうろこと、家族写真の束を見つける。ガフは静かにそれを見ながら、勃起した男の折り紙を折る。)
デッカード(声のみ):レオンがほんとうの住所をホールデンに教えたかどうかは、わからなかった。だがこれが唯一の手がかりだった。なんにせよ浴槽の中のものは人間のものじゃない。レプリカントにうろこはない。それに家族の写真?レプリカントに家族があるはずがない。
(電話ボックスの外でレオンはロイに会う)
ロイ:まだ時間はある…(間)。 大事な写真は取ってきたのか?
レオン:誰かが部屋にいた。
ロイ:ひと?…警察、か?
*
現在のバージョンではデッカードのナレーションは削除されているが、この「家族写真」は、脱走したレプリカントにとっては逮捕の危険を犯してまで取りに戻らなくてならない大切なものとして描かれている。それらのほとんどは、どこかで拾い集めた無関係な写真であったとしても、彼らにとっては自らの「人間らしさ」を証明する唯一の意味なのだ。
ジャンクな「家族の記憶」を寄せ集めなくてはならなかった脱走レプリカントに対して、新型レプリカントの試作品であるレイチェルには、より「人道的」な処置が施されている。設計者のタイレル博士の姪の記憶が移植されているのだ。そのレイチェルもまた、自分の記憶の根拠のなさに怯え「子供のころの写真」を常に持ち歩いている。だが彼女の幼少時の記憶もまた、デッカードによって彼女の人間性とともに否定されてしまう。
そしてレイチェルも含めたレプリカントが持つ写真のうち、偽物ではない本物の「家族写真」はただこのひとつだけなのだ。脱走し潜伏した部屋に訪れたひとときの静寂。その瞬間に仲間に向けた親密な視線。それがこのインスタント写真のイメージなのだ。
窓から差す穏やかな光、手前の家具、ベッドのシーツのしわ、開いたドア、その向こうの空間、凸面鏡。
これは確かに、ネーデルラントの画家が創造しハンマースホイが踏襲した「親密な関係の図像」だ。
左のテーブルの向こうに肘をついた男のレプリカント、そして開いたドアの奥、フェルメールだと人物がいるべき場所には凸面鏡があり、そこに別のレプリカントが写っている。この凸面鏡は、フランドル派の創始者、ヤン・ファン・エイクがプライベートな室内での婚姻を描いた絵を想起させる。
レプリカントのこの写真が「プライベートで親密な関係を描くフォーマット」で構成されていること、それがフェルメールから続く歴史的イコンであることは、見間違いようがない。しかし、どのような経緯でこの明白なフェルメールの引用が映画に採用されたのかは、ただ推測するしかない。
映画製作に関わった美術チームの見識だったことは間違いないだろうが、監督のリドリー・スコット本人からの直接の指示があったことも考えられる。なぜならリドリー・スコットは『ブレードランナー』の世界を作り上げるために、美術チームの鼻先に常にエドワード・ホッパーの作品『ナイト・ホークス』の複製をひらつかせたとコメントしているからだ。その彼が、重要な小道具であるこの写真のためにフェルメール作品を示唆したことは十分に考えられる。
あるいはもうひとつの可能性として、この「引用」は意図されたものではないということもありうるだろう。
私たちはこの小道具の写真に、家族の記憶や親密さという「意味」を容易に見て取ることができる。それは私たちがこのイコンが象徴する意味をすでに知っているからだ。映画の制作スタッフも、劇中の登場人物も、観客である私たちも、このイメージから同じ意味を読み取ることができる。それはフェルメールがこの図像を創造して以来、350年かけて私たちの内部に定着したひとつの言葉なのだ。私たちが図像(イコン)に見て取ることができる「意味」は、歴史のなかで形成されてきたものなのだ。
またさらに付け加えるなら、他の捏造された家族写真と異なり、この写真だけがレプリカントやデッカードや私たちに「人間とは何か」という問いを突きつける力を帯びている。それは、このイコンには、ハンマースホイの深い戦慄と洞察もまた織り込まれているからではないだろうか。
この記事は、東京オルタナ写真部のアート批評ワークショップ「作品を見る、語る」におけるディスカッションの内容を反映しています。ワークショップにご参加いただいたみなさん、ありがとうございました。
また、2020年1月21日より、東京都美術館にてハンマースホイ展『ハンマスホイとデンマーク絵画』が開催されます。東京オルタナ写真部では2020年2月15日(土)に、この展覧会の批評会を開催する予定です。ぜひご参加ください。詳細は下記ページをご覧ください。
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