現存しない「国宝」としてあまりに有名な法隆寺金堂の壁画。
この壁画は1949年に火災により焼損しました。


しかしそのような経緯にもかかわらず、私達はこの壁画を美しいイメージでよく知っています。

それは、ある印刷・出版社が残した「写真」があったからです。

 


■ 現存しない「国宝」

世界最古の木造建築である法隆寺。その金堂に描かれた壁画は、建物の建立時期と同じく7世紀末ごろに描かれたと考えられています。インドのアジャンター石窟群、中国の敦煌莫高窟の壁画に並ぶ、アジアの古代仏教美術を代表する作品とされていました。

 
菩薩像
アジャンタ石窟寺院壁画 5-6世紀
撮影:筆者
 
アジャンタ石窟寺院壁画 5-6世紀
撮影:筆者
 

もっとも、日本美術の価値を日本人自身が認識し始めたのはごく最近のことです。明治の初め頃は廃仏毀釈により多くの仏教美術が無残に破壊されました。明治30年になり、ようやく古社寺保存法が制定され「国宝」が法令により指定されるようになります。しかし「文化財」の概念はまだ乏しく、戦中、戦後の混乱などにより多くの重要な歴史的、文化的遺産が失われました。そのもっとも重大な事件がこの法隆寺金堂壁画の焼損でした。

法隆寺金堂壁画
第6壁 阿弥陀浄土

法隆寺金堂壁画の価値は明治期から認識されていましたが、すでに壁画の劣化は深刻なものでした。清掃のたびに床に剥落した顔料が見つかったそうです。そのため壁画を後世まで存続させるために、保存方法の検討と模写が行われました。

日本画家による壁画の模写は1940年に始まり、1942年に戦争のために中断。戦後に再開されましたが、模写作業中の1949年に法隆寺金堂は出火し壁画の画像は消失します。

現在の文化財保護法はこの事件を契機に制定されました。私たちがよく知る「国宝」「重要文化財」といった国指定の文化財はこの法令に則って指定されています。

”昭和24年1月26日の法隆寺金堂壁画の消失を契機として、議員立法により昭和25年に文化財保護法が成立した。”
文化庁ウェブサイト

壁画の焼失を伝える当時の新聞記事

 

■ 便利堂のコロタイプ印刷

ところでこの法隆寺金堂壁画ですが、戦後すぐという混乱期に消失したにも関わらず、私たちは美しいイメージでこの壁画をよく知っています。オリジナルはもう存在しないのですから、私たちが知っているのは本物ではないはずです。それは実は、壁画が焼損する前にこの壁画を詳細に撮影した「写真」があったためです。

壁画の「写真」が撮影されたのは1935年。今から80年前です。撮影したのは京都の印刷・出版社「便利堂」。金堂の壁画は、保存方法の検討と同時に模写の制作が進められていましたが、その制作は印刷の上に彩色していくという方法がとられました。その下絵の印刷を担当したのが便利堂です。

戦前の模写事業は戦争のために中断し完成することはありませんでしたが、壁画焼損後の1967年に改めて模写(再現制作)が行われました、その際にも便利堂の印刷下絵に彩色するという戦前と同じ方法が取られました。現在、法隆寺の金堂の壁面に見られるのはこの模写です。

…印刷?
いくら模写だからって印刷?
唯一無二の文化遺産の複製が印刷でいいのか…。

そう思われるかもしれませんが、ただの印刷ではないんです。便利堂の印刷は私たちが知っている印刷技法とは異なる、「コロタイプ」という150年ほどまえに発明された「古典技法」です。

非常にシャープなエッジ。美しいハーフトーン。顔料による高耐久性。
そして、インクジェット・プリンターを凌駕する高精細。
現在でもなおコロタイプは、最も美しいグラフィック印刷技術のひとつです。

 

写真原版から作成された原寸大コロタイプ
東京大学総合研究博物館蔵

 

かつて、コロタイプは美麗なグラフィック印刷技術として多くの印刷会社が採用し、卒業アルバムなどの印刷に使われました。しかしコロタイプは高度な職人技術が要求される技法のため、コロタイプ印刷であれば全てが優れた印刷であったわけではありません。

やがてオフセット印刷が発達し、コロタイプ印刷は衰退していきました。便利堂は、現在の日本でほぼ唯一、洗練されたコロタイプの技術を護り続けている印刷会社です。

ちなみに、コロタイプと並ぶグラフィック印刷技法にグラビア印刷があります。
グラビア?女の子?水着?と思った人はこちらの記事を参照。

「グラビア写真」はオルタナティブ写真である :東京オルタナ写真部ブログ

コロタイプもグラビア印刷も、元は写真の技術を応用して考案されたものでした。古典的な写真プリントと版画と印刷では、原理が共通しているものが多くあります。例えば、フォトグラビュール(写真古典技法)、アクアチント(版画)、グラビア印刷はいずれも同じ原理です。コロタイプの場合は、オイルプリントという写真技法が原理としては比較的近い技法になります。

しかし以前、便利堂の工房を見学させていただいた時の印象では、便利堂コロタイプは浮世絵の技法に近いものを感じました。浮世絵では原画があり、版を分解して色設計する職人がいて、色ごとの版を彫る職人がいて、その版を刷り重ねる職人がいます。便利堂のコロタイプの作業はじつにこの浮世絵のプロセスにそっくりでした。

コロタイプによるカラー印刷の場合、単純な色分解による色再現ではなく、職人が目で確認しながら画を作っていきます。印刷に使うインクは4色よりもはるかに多く、必要に応じて画の部分ごとに版を作ります。そのため、ひとつの画を作るのに多くの版を複雑に重ねて刷り上げることになります。優れた職人による、実物以上に実物の美しさを再現した印刷。それが便利堂のコロタイプだと感じました。

法隆寺金堂の壁画の模写を作成するにあたり、便利堂のコロタイプ印刷に彩色する方法が採用されたのは、作業を簡便にするためでもなく、当時の複製技術の限界などでもなく、非常に妥当な方法だったと言えると思います。それは現在でもなお、コロタイプは最も優れたグラフィック印刷技術のひとつだからです。

そして、もはや存在しない法隆寺金堂の壁画を、私たちが鮮やかなイメージで記憶しているのは、この便利堂のコロタイプ印刷によるものなのです。

法隆寺金堂壁画と便利堂コロタイプ#2へ)

 

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