写真の歴史と淡谷のり子
東京オルタナ写真部のアナログ写真ワークショップの写真史のレクチャーでは、最初に淡谷のり子の「別れのブルース」を紹介しています。
写真の歴史と淡谷のり子の歌に何の関係があるのかというと…とくに関係はありません。しかし歴史を考える上ではとても参考になります。
「写真とは何か」の罠
私たちはワークショップを通じて「写真とは何か」を考えるのですが、実はこの問いはそのままでは解くことができません。なぜなら「写真とは何か」という問いにすでに「写真」という言葉が含まれているからです。もう少し説明すると、「写真とは何か」という問いには価値の審判が含まれますが、写真という語がその価値を示す言葉でもあるという、循環が発生しています。この点で、「写真とは何か」は、たとえば「SSL通信とは何か」というような問いとはまったく質が異なります。
この言葉の罠をうまく解かずに考えてしまうと、写真とは何か→それは写真だ→写真とはなにか→…写真とは写真だ!みたいなことになってしまいます。「写真とは写真であり、写真以外の何物でもない。」なんて言うと、ちょっとかっこよく聞こえますが、意味のあることは何も言っていないわけです。
そこで、まず最初に「写真」という言葉とモノがこの世に出てきたときのことを調べてみよう、というのが私たちがワークショップで行っている写真史です。
日本の写真史を考える場合はさらに少しややこしくなります。写真は、日本が近代化した明治期に欧米からもたらされました。このとき、日本人はなにをどう受け取ったのかを調べる必要があります。
そこで、淡谷のり子です。ブルースの女王!
「別れのブルース」と「ブルースの女王」
1937年の「別れのブルース」のヒットのあと淡谷のり子は「ブルース」を次々と歌い、やがて「ブルースの女王」と呼ばれるようになります。
では淡谷のり子はベッシー・スミスのような同時代の偉大なブルース歌手と並び称されるのかというと、そんなことは決してありません。なぜなら淡谷のり子がブルースを歌ったことはいちどもないからです。淡谷のり子が歌った「ブルース」は、当時の日本人がそう呼んだ歌謡曲のことです。
ブルースを歌ったことがない「ブルースの女王」。
淡谷のり子が素晴らしい歌手であることは言うまでもありませんが、それとはそれとして、彼女の歌をめぐっては、とても奇妙な文化のギャップがあることがわかります。
(ちなみに、黒澤明の映画『醉いどれ天使』にも、ふんわかムード音楽をタンゴと勘違いした医者に「バカだな、これはブルースだよ」とやくざ者が言うシーンがあります!ちがう、それブルースとちがう!)
映画『マ・レイニーのブラックボトム』
Netflix製作の映画『マ・レイニーのブラックボトム』
予告編
本編はこちらから
https://www.netflix.com/watch/81100780
この映画は、「ブルースの母」マ・レイニーが1927年に彼女の歌「ブラックボトム」をレコーディングする情景を描いたドラマです。派手な映画ではありませんが、すばらしい作品です。
淡谷のり子が「別れのブルース」を出すのは、この映画で描かれる「ブラックボトム」の録音の10年後です。
ブルースのもっとも重要なコンテクストを、日本の「ブルース」は理解せずに切り捨てている。両者を比べてみてわかるのはこのようなことです。このギャップは、日本人が外国由来の文化を受け取る際のひとつの典型例を示していると思われます。
そしてもちろん「写真」もそのような外国由来の文化のひとつです。私たちが日本語で「写真とは何か」と考えるとき、その写真という言葉が指しているものを歴史の中に慎重に見ていく必要があります。
ともあれ、この映画は難しいこと抜きで、とても楽しめます。
それになにより、ヴィオラ・デイヴィスとチャドウィック・ボーズマンのすばらしい演技!映画好きなら、これは必見です。
そして…この映画は、チャドウィック・ボーズマンの遺作となりました。(;_;)
あわせて、こちらもとてもおすすめです。
『マ・レイニーのブラックボトムが映画になるまで』
この映画のキャストとスタッフが、ブルース音楽と黒人文化とこの映画のストーリーについて話しています。プロデューサーのデンゼル・ワシントンも出ています!
https://www.netflix.com/watch/81382641
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"One, Two, You know what to do! "
お正月休みにぜひどうぞ!