書評:『映像のアルケオロジー:視覚理論・光学メディア・映像文化』大久保遼(青弓社)

The John Johnson Collection
The Gallant-ee show. from The Magic Lantern, vol. 1, no. 1. November 1, 1822. The John Johnson Collection
映像のアルケオロジー: 視覚理論・光学メディア・映像文化 (視覚文化叢書)
 

 

この本は、これまで日本の映像史研究では研究対象とは考えられなかったような、見世物小屋などでの映像経験の歴史を「発掘」していく。

「映画史」「写真史」などは研究ジャンルとしてすでに成立しているものだ。その成果は非常に大きく豊かなものだろう。しかし、私たちが実際に社会生活の中でどのように映像を経験しているのかを考えようとする時、既存の研究ジャンルは十分に応えられない可能性がある。従来の研究では見落とされていた映像経験の歴史があるのではないか。そこがこの本の主眼だ。

寄席での余興から、演劇、教育、報道、心理学と、この本で展開される資料の分析は非常に広い範囲に及んでいる。そして扱う史料が広範囲にわたるに従い、研究の射程もかなり広いものになっている。

この著者が批判的に乗り越えようとしている先行研究に関して、私は全く知識がない。しかしそれでもこの本は、この分野において非常に良質な研究であり、また大変な労作なのではないかと感じられる。

その理由のひとつはもちろん、この本が明らかにしていく「史実」がどれも新鮮なスリルがあるということだ。宮沢賢治の詩に出てくる「狐の幻燈会」。これが当時の幻燈を用いた教育実践のパロディであることが明らかになる。また樋口一葉『たけくらべ』の美登利たちが企画する幻燈会。小説の中で美登利は大人が顔負けするほど遊びに長けた一面を見せるが、それでも子どもたちだけで開催できるほどに映写機材は当時すでに一般に普及していた。さらに夏目漱石の作品に出てくる、登場人物の心象を指す「影象(イメジ)」という語の由来。初期の映画が必ずしも「映画」として映画館で上映されただけではなく、演劇やジオラマ展示と共に用いられたということなどなど。

この本により、そのような映像体験の歴史を時代状況としてリアリティを持って理解することができる。これはこの本の非常に大きな魅力になっている。

また自分がこの本を評価したいもうひとつの理由は、私自身が写真を研究する中で、先行する歴史研究に不備を感じた経験があるからだ。本を読まないので、もしかすると日本写真に関して良質な研究もあるのかもしれないが、私の見る限りにおいては、多くの日本の写真史研究は歴史年表然とした理解に留まっている。つまり写真がその時代に実際にどのように経験されたのかを知りたくても、それに応えるような研究は非常に少ない。おそらくこの本の著者も映像史研究において同様のフラストレーションを覚え、それがこの研究の動機になったのではないだろうか。

そうであるならこの本は、写真について知りたい私にとっても、非常に有用なものであるはずだ。

この本を読むように勧めてくれたのは、あるアメリカ人の日本近代史研究者だ。私が開催する歴史的写真技法のワークショップに彼が参加してくれたのが、出会ったきっかけだった(アメリカにも優れたワークショップはたくさんあるはずだが『家の近所でやってるところがなくて』という衝撃的な参加理由だった)。年表的な理解でない経験としての写真史と、歴史的技法の実践に関心をもつ自分にとって、この本は健全な刺激のある読み物だった。しかし率直に言って、その一方で、この著者の研究姿勢には根本的な違和感を持った。それが何なのかうまく指摘できる自信はない。しかし自分の直感としては、この研究において、史実を実証的に検証している部分は良いが、それに対する考察はあてにならない気がしている。

何度も言うが、自分は専門の研究者ではないし、本も読まない。だからこういう研究を評価する資格がないことは承知している。それにこの分野において、この本は非常に良質な研究成果であることも確信している。この分野に関心がある人は読むべき良書だ。だがそれと私自身が感じている違和感は別の話だ。私自身と、私のワークショップ参加者、とりわけアナログ写真ワークショップのアドバンストクラスの受講生のために、この違和感について考えてみたい。

研究者の「視座」

まず著者自身が主張するこの本の重要な趣旨は、従来の映像史研究が取りこぼしてきた研究対象にも(こそ)、現在の私たちの映像経験のあり方を読み解く鍵がある、というものだ。そのための視座をまずこの著者は宣言する。この「視座」という言葉はこのような研究でよく使われるのかもしれないが、私には意味がよくわからない。視座。座して視る、その場所のことだと捉えればいいのか。簡単に言うとここで著者は「自分には映像の歴史がどう見えるのか」という話を始めるにあたり「自分は映像の歴史をどう見るのか」を設定する。私にはこれは奇妙な行為のように感じられるが、ともあれ著者は先行研究をあげつつ、自分の立ち位置を最初に宣言する。

その後は広範な歴史資料を参照しながら、日本人が19世紀にどのように映像を経験したのかを探っていく。先に書いたとおり、資料から当時の実践を実証的に再構成する部分は非常に興味深く、読んでいても新鮮な刺激がある。しかしその資料やその実践の「意味」を著者が論考している部分は、驚くほど図式的だ。それも図式的に整理するというわけではなく、「視座」としてあらかじめ設けた図式に史実を当てはめていっていると言う方が正確だろう。

著者自身は文中で必ずしも明言していないが、彼が「視座」として持っている図式はおおかた次のようなものだ。

  • 「権力」や「知」は束縛し拘束しようとするが、民衆は常にしたたかに逸脱し自由を確保する。
  • 「視覚の理解は光学的な説明から生理学的な説明へと移り変わり、その間には切断がある」というヨーロッパの視覚の歴史観に日本の映像史も対応する。
  • 現在の私たちの映像の経験の仕方は、日本の19世紀の映像経験がすでに準備していたことなので、それに対応させることができる。
  • 『パサージュ論』などのベンヤミンの論考は、19世紀日本の映像経験に接続することができる。

これらがこの本の中で図式的に見える理由は、このような見方に史実を当てはめていくことの意味や理由が説明も検証もされていないことにある。これらの見方は、映像史の検証や論考にとりかかる前に、著者により「視座」として準備されたものだ。決して、資料やそこから導かれる史実が要請した知見ではない。著者は史実から意味を汲み取るのではなく、逆に史実を図式に当てはめていくので、その論旨のパースペクティブはめまいを覚えるような歪みを生じている。

例えば、日清戦争期に国家意識を高揚させる幻燈会が全国で多数開催されたという史実に対し、ある小説の中の「幻燈会の落ち着きのない幼児」の描写を対峙させて、「統御をすり抜ける多様な反応」があったとほのめかしつつ主張するあたりは、カテゴリーミステイクだと言うほかない。

ヨーロッパでは15世紀には既にカメラ・オブスクラは写生道具として実用化されており、光学と視覚の研究には長い歴史と成果があった。やがて19世紀になり視覚の生理的側面の研究が進むことで、視覚の捉え方はそれ以前とそれ以降で切断される、という映像史観がある。かたや日本の場合は、それら全ての知識がざばっと一緒くたに明治期に入ってきた。各々の知識の歴史や認識の厚みは受容の時点で無視された。著者もそれを認識しているのだが、それにも関わらず「視覚の切断」史観に日本の映像史を対応させようとする。

著者はまた、現在の私たちの映像経験はすでに19世紀の映像経験が準備したものだとする。考えてみればこれは当然のことだ。私たちが映像をとらえる文脈は歴史の中で形成されたものだからだ。写絵を楽しんだ日本人と3D映画を見る日本人が大局的に連続した存在なのは言うまでもない。しかし著者はそうではなく、現在の映像実践と19世紀の映像実践を逐一対応させてみせる。Qフロント(渋谷のスクランブル交差点のモニター)=「幻燈広告」…などなど。著者はここで「現在」というが、実際のところそれはただこの本が書かれた2015年を指しているにすぎない。著者が何度も言及する渋谷のQフロントが10年後も同じように存在するとは考えられない。そのように数年で効用の限界が来る「対応表」を作ることで、現在の私たちの経験の内実の何がどう明らかになるのかは検証されない。

ベンヤミンが近代都市を幻燈会のイリュージョンに喩えるのは彼特有の話芸…と言って悪ければ文学的表現だ。そのような言葉の「遠投」がベンヤミンとその時代の思想にとっては、何らかの有効性があったのだろうと思う(よく知らない)。だがこの著者が日本近代の映像史をベンヤミンの「文学表現」に接続することには、いったい何の意味があるのだろうか。これらのことを著者は特に終章において試みているが、私が読む限りおよそ意味のあることを何も言っていないように見える。これはある「ヴァナキュラーな」研究業界でのみ通用する作法でしかないのではないか。

対応関係や影響関係を図式的に描くこと、あるいは欧米の著名な研究との対応や接続を言葉の上でしてみせること。それがこの分野の「研究成果」なのだろうか。このような身振りや目配せが資料を検証し論考することの意味なのだろうか。本来、著者が目指したものは、決してそうではないはずだと思うのだが。

写真/写真ではないもの

この本の第3章では磐梯山の噴火とその災害報道を扱っている。この本によると、磐梯山噴火は、明治政府が始めて直面した大規模災害で連日のように「報道」がなされた。それまでは報道に当たるものは新聞錦絵やかわら版であって、決して現代のようなニュース報道ではなかった。

この災害の少し前から新聞は挿絵の改良を目指し、新聞紙面の木版画に銅版風の線描写を取り入れることで錦絵からの脱皮をはかるなどしていた。そして読売新聞が磐梯山噴火をついに「写真」入りで連載し、大きな話題となった。

なるほど、日本で史上初めて新聞紙面に写真が登場する。これは興味深い。ところで著者はこれは「写真」ではなかったとしている。著者によると「掲載された「写真」は極めて粒子が粗く、写真というにはどうも不鮮明で判然としない。」「写真ではなく模写した銅版画にすぎなかった。」「網目版の前駆に位置づけられるとはいえ、手による模写の段階を経ている点で、後の写真製版技術からは区別される。」「版画家・中川昇の印が掘られていることから、写真ではなく版画であることは明白である。」ということになる。はたして本当にそうだろうか。

読売新聞 1888年8月7日に掲載された写真(本書から複写)

読売新聞が磐梯山写真の印刷に採用した技法は粉末の松やにを使うアクアチントだということだ。これは確かに銅版印刷だ。そしてそうだとしたら、これは著者の言うような網目版の前駆ではなく、グラビア印刷の前駆だ。グラビア印刷は銅版を用いる非常に美麗な写真印刷技術であることは言うまでもない。そしてグラビア印刷の基本技法は、この磐梯山噴火写真が読売新聞に掲載される2年前の1886年に一般に公開されている。(Art of Photogravure/ Karl Klic

読売新聞の「写真」は松脂を熱で固定した銅版にクレヨンを使って写真を模写した可能性が指摘されているが、新聞印刷の専門家による検証でも実際の技法は判然としない。(日本新聞製作技術懇話会 会報 『CONPT』 vol.39 PDF)

ちなみに銅版のマスクを重クロム酸塩溶液で処理すれば、撮影されたガラスネガから直接複写することができる。そうして制作した印刷版にクレヨンで修正を加えるのはごく自然にあり得ることだ。そしてこの可能性は排除されていない。

これだけでも、この写真を「写真でないことは明白」だとは決して言うことはできない。写真ではない根拠として、印が入っていることを著者は指摘しているが、当時、先進的な写真術を持った技師が写真にサインを入れることはふつうに行われていた(『早撮写真師 江崎礼二』など)。また銅版であるから写真でないとするのは完全におかしい。もしそれが正しければアルフレッド・スティーグリッツにより創刊された写真誌『CAMERA WORK』誌上に写真は存在しないことになる。写真史に重要な位置を占めるこの雑誌はグラビア印刷、つまり銅版で印刷された。

「グラビア写真」はオルタナティブ写真である /CAMERA WORKとフォトグラビュール
Eugene, Frank, Camera Work No,30, 1910年 グラビア写真という言葉を聞いたことがない人はいないだろう。水着の女の子を激写したあれである。 ちがうって。ちがうって。ちがうって。 3回言うけれど。   本当のグラビア写真は、歴史のある写真プリント技法のことだ。...

 

「写真でないことは明白」だとは言えない、もうひとつのより本質的な理由は、何よりもこれが当時「写真」として経験されたことだ。我々がいま知っている(と信じている)写真は、19世紀日本人が経験した「写真」からコンテクストを受け継いでいる。そうであるなら、当時の新聞読者が熱中したこの「写真」を写真ではないと言い切る特権を、我々の誰も持っていない。これがかつての写真であり、我々の「写真」観はこれに連続したものだ。この本の冒頭の宣言を敷衍するなら、当時の写真のプラクティスを知ることで、我々の「写真」のプラクティスを解明するのがこの著作の目的ではなかったのか。我々の写真観をして、当時の写真を、写真であるかそうでないかを断定するのは、明らかに趣旨が転倒している。著者は自分の「写真」観をもってこれを写真でないと断定するのではなく、この「写真」を基準にして自分が信じる「写真」観に検証を加えるべきだったはずだ。自分自身が何を「写真」だと信じているのか。そのコンテクストがどのような経緯をたどって生成されてきたのか。それは歴史的「写真」を知る以外に方法はない。そしてそれを知るためには、観察者はまず何よりも自分の「視座」から降りなくてはならない。

これはこの本の大きな仕事の中では瑣末な部分だ。しかし自分がこの著作全体から感じる違和感をこの点は本質的に代表しているような気がする。

図式にあてていくことが、研究の成果であるのなら、それはどこまで行っても私たちの生を実存的に何も明らかにしないだろう。それはいつでも誰でもが、どのようにでも語り得る物語のひとつでしかない。

かつてかなり若かった頃、自分の作品について年長のアマチュア写真家から「こんなのは写真ではない」と言われたことがある。そしてその後、私は作品を制作できなくなった。そう言った本人はそんなことを覚えてもいないだろう。しかし私は、彼が言う「写真」とは何か、その「写真」観はどのような経緯で成立したのか、そしてそれはどういう権利でもって写真とそうでないものを同定できるのか(そしてそれができると信じられているのか)、という問いに完全に答える必要があった。

この著者が、かつて人々が熱中した「写真」を「これは写真ではない」と言う時、私はそこでどうしても立ち止まってしまう。

なぜ、どのような権利で「これは写真ではない」と彼は言うことができるのだろう。写真ではないが写真だとして受容されていたと著者は書いてはいるが、それはエクスキューズにならない。なぜなら、読売新聞に掲載された磐梯山噴火の「写真」は写真だからだ。

この「写真」を写真ではないと断定できる根拠は、実のところ著者自身が持っている「写真とはこういうものだ」という臆見以外には存在しない。そして、そのような臆見を解体することがこの研究の趣旨だったのではなかっただろうか。

この著作が良質な映像史研究であることに疑いはない。だが、著者が冒頭で宣言するように、我々の映像をめぐるプラクティスを読み解くに至るには、何かが本質的に不徹底だと言わざるを得ないだろう。それは研究者としての姿勢なのか、研究手法なのかは、私には指摘できない。

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