(1から続く)
© Eric Schwabel Burning Man 2010
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(1から続く)
いや、まあ、写真はたしかにかっこいいが、それだけ見ると、Photoshopで流行りの加工を施した、派手だがやや見飽きたタイプの写真ばかりだ。これが写真家のポートフォリオに入っていても、それほど気になることはない。すばらしいのは、この写真が、この写真に写っている人々にとって、かけがえのないものになるだろうからだ。
エリックは被写体になってくれた行きずりの人たちと撮影のたびにアドレスを交換した。そしてできあがった写真をそれぞれに渡すことになるだろう。写真はずいぶん派手なタッチに加工されている。しかし、自分の写真をもらった人は、自分がいた光景はたしかにこの通りだったと思うんじゃないだろうか。バーニングマンはこんな色だったと思うだろう。そして、自分はたしかにその世界の一部をなしていて、はからずも写真の中では自分が主人公なのだ。あのとき、世界はこんなタッチでこんな色をしていた。そして自分はそこにいたのだ。記憶の中で、真実はたしかにこのとおりだったのだ。
バーニングマンは人を楽しませるアートを問われる場であることを考えるとき、この写真はいい写真だと思える。それになんといっても、とてもいい仕事だ。
このポートレートはどれもすばらしい。
エリックはバーニングマンの撮影で有名になり、また仕事が増えるかもしれない。だがそれはどうでもいいことだ。バーニングマンで起きることは外の世界に持ち出すことはできないはずだからだ。なぜなら、バーニングマンの外の世界、つまりわれわれが生きるこの世界は、「売れることを競い合う世界」であって、本物のアートを競い合うバーニングマンの世界ではないからだ。
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だいとうがこの話が気になって、このブログに書いたのには少しだけ個人的な理由がある。
それは以前、自分が生きたはずの500日間ほどの記憶が信じられなくなるという経験をしたことがあるから。自分で自分の記憶が信じられない。自分が覚えていることが全て嘘だったように思える感覚。
この誰にも相談できなかった深刻な病は、その期間に撮影した写真を完全に満足のいくプリントで仕上げるまで続いた。その写真は表現としてはエクストリームだが、自分の人生の一部がたしかに現実に起こったことだと保証するには役に立った。
だからだいとうは、バーニングマンで撮られた無名の人々のポートレートが、彼らの手元に配られることはすばらしいことだと請け合うことができる。
わたしたちはみんな、真実を記憶の目で理解するのだ。
© Eric Schwabel Burning Man 2011 今年のエリック。