フィルムはいい。デジタルはだめだ。
つい数年前まで写真家はみんなそう言っていた。
しかし、そう言っていた誰もが何の不自由なくデジタルに移行した。
では、それでもまだフィルムで写真を撮る理由はあるのだろうか。
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かつてプロカメラマンがフィルムを捨ててデジタルに移行した大きな理由は二つあるようだ。ひとつは、撮影条件に応じてフィルムを替えなくてはならなかった煩雑さ。もうひとつは、撮影した画像をその場で確認できない不便さ。ということらしい。たしかに、その通りだと思える。
しかし一方で、フィルム写真(銀塩写真)を存続させようという動きもないわけではない。代表的なものとしては「ゼラチンシルバーセッション」と銘打って、Fuji Filmと何人かの写真家たちが活動している。
ただ、ゼラチンシルバーセッションは「銀塩写真でしか表現できない写真の楽しさ、面白さを広く知ってもらう」という目的を掲げてはいるものの、ほんとうにその目的にかなった活動内容かどうか、参加写真家からも疑問を持たれることがしばしばある。
例えば、ゼラチンシルバーセッションでは、写真家同士で作品のフィルムを交換して、撮影した写真を別の写真家がプリントするというイベントを行っているが、フィルムの特性を考えるとこれはずいぶんナンセンスなことだ。なぜなら、フィルムは、現実の光を写真として美しく再現するための技術なので、印画紙に写真を焼くプロセスにおいては、表現の自由度はさほどないからだ。
「ネガは楽譜で、プリントは演奏だ」という言葉があるが、レトリックとしてはともかく、技術的には正確ではない。銀塩のプリント作業には、音楽の演奏ほどの表現の余地はない。いくらコーヒーの淹れ方をこだわってみても、コーヒー豆を選んだ時点ですでに味の質は決まっている、と言えばわかりやすいだろうか。淹れ方次第でコーヒーの味を台無しにすることはできても、元の豆よりおいしくすることはできない。
むしろ周知の様に、撮影後の画像処理はデジタル写真こそが圧倒的な自由度を持っている。つまり撮影後の処理においては、銀塩よりもデジタルの方が圧倒的に表現の幅が広い。だから、写真家同士が撮影フィルムを交換してプリントしたところで「銀塩写真でしか表現できない」何かが出てくることはない。
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このように「銀塩写真でしか表現できない」ものはなにか、ということは、実際のところプロの写真家たちにもしっかり自覚されているわけではない。フィルムを使わなければならない、説明可能な理由や動機を持っている日本人の写真家はほとんどいないのではないだろうか。
余談だが、「銀塩写真」や「ゼラチンシルバー」という言い方は何かというと、要は市販のフィルムと印画紙のことを指している。本来の意味では銀塩写真というとフィルム以前の技法も含むはずだが、日本では、そういう使われ方をすることはまず無い。アナログ写真も同様にフィルム写真だけを指している。しかし本来は、フィルム以外にもアナログ写真の技法は無数にある。
ところで、だいとうは作品の撮影は全てフィルムを使っている。
(幻の名フィルム、J&C Classic Pan 200!)
白黒フィルムをオリジナルの自家製現像液で自分で現像。紫外線で密着焼きするため、途中いちどデジタル化するが、プリント作業は印画紙から手作りしている。
超アナログ。暗黒の原始時代。
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だいとうに言わせると、これだけデジタルの画像処理が進化した時代に、フィルムを使う理由は(2+1)個しか残っていない。
(2へ続く)