東京オルタナ写真部の読書会
東京オルタナ写真部では美術批評や写真論を読む読書会を開催しています。この読書会で先日読み終えたのは、ケネス・クラーク著『ザ・ヌード』。読み終えるまで約半年かかりました。
本を一冊読むのに半年もかかるなんて…と思われるかもしれませんが、私も思ってました。ゆっくり読んでもせいぜい1ヶ月もあれば終わるだろうと、思っていました…。甘い…甘かった。そして何もわかってなかった。あの頃の私はまだなにも知らなかったんです。
そもそもなぜ『ザ・ヌード』を読んだのか
なぜって…それはヌードの本だから興味があったんです。そもそもおかしいと思いませんか?はだか、とくに女性の裸体は、世間的には禁止されているものです。それはわいせつで健全な社会に反するものだから、目につくところにあってはいけないとされています。
たとえば先日、ベルギー観光局がfacebookにルーベンスの絵を投稿したところ、ヌードが含まれていて不適切だとfacebookの運営から削除されてしまいました。
それに対するベルギー観光局の抗議ビデオはこちらです。美術館の観客をfacebook警備員が取り締まっています。(もちろん冗談です)
facebookの問題はさておき、こんなことが起こるのは、そもそも「ヌードは人目についてはいけないもの」とする社会通念が存在するからです。
ヌードは芸術なのか、わいせつなのか
ヌード、とくに女性の裸体像がそれほどけしからんものなら、なぜ西洋美術はヌードだらけなのか?おかしくない?わたしはおかしいと思います。
芸術と裸体のイメージってそれぞれこんな感じですよね。
- 芸術=高尚、正当、本物、感性、美、子供のころからみたほうがいい。
- 裸体=恥ずかしい、わいせつ、下品、欲望、犯罪、子供にみせちゃだめ。
ぜんっぜんちがうやん。
そんなダメダメなはずの女性ヌードが、なぜ西洋美術にはあふれかえっているのか?
むっちゃ謎です。
ヌードは芸術なのかわいせつなのか。それ、この本に答えが書いてあるんじゃないか?そう思ったのがこの本を読もうとしたきっかけでした。
ぜんぜん思ってたような本じゃなかった
果たして答えは書かれていたのか?
…てそんなことより、まず言いたいのは、この本、思ってたのとぜんっぜん違ってた!!
ヌード作品について手軽なうんちくを仕入れられると思いきや、読み始めたら、まったくそんな本じゃなかったです。そんなつもりで読んだら、数ページで挫折します。私もひとりで読んでたら、せいぜい序章だけで投げ出してたと思います。他の人といっしょに読む読書会だったから最後まで読み通すことができました。
ではこれがどんな本なのかを説明するのは、あまり簡単ではないのですが、ひとことで言うと「ヌードは芸術か、わいせつか」って、その問いの意味をそもそも理解していなかったことを教えてくれる本、と言えるかと思います。
いやーもう、衝撃の連続でした。いま思い出しても、この本の、あの章、あの段落、あの絵に受けた衝撃がありありとフラッシュバックします。自分、なんにもわかっていませんでした。よくまあこれまでなんにもわかってないのに、美術だの表現だのと言えてきたものです!ごめんなさい!でも、この本を読まずに死ななくてよかった!
著者のケネス・クラークはこの本の日本語版の序文に「日本人にはこの本の議論を理解できないだろう」と書いています。はじめそれを読んだときは反発を覚えました。しかし読み進めると、たしかに、芸術とは自分が思い込んでいたものとはぜんぜん違うものだったことが、次々と明らかになっていきます。
読むのに時間かかりすぎ?かかるんです
ところで、そうはいっても、ふつう一冊の本を読むのに半年は時間がかかりすぎです。しかし正直なところ、毎週、かなりの時間をこの本を読むことにあてて、ほんとうに半年かかってしまったんです。そのいちばん大きな理由は、画像探し。この本に言及されている作品の画像を探して、その作品の基本情報を探すことにとても時間と手間がかかりました。
この本には絵や彫刻が大量に登場するのですが、掲載されている図版はごく一部ですし、非常に画質も悪いものです。でもそれはしかたないことです。この本に出てくる作品をすべて満足のいく画質で網羅しようとしたら、それだけで数巻の大きな美術書になってしまいます。
だけど、いまならわたしたちにはGoogle画像検索があります!ありがとう、Google!それに世界中の多くの美術館が所蔵作品の高解像度画像を公開しています。ほんとうにありがとう!
そんなわけで、手分けして画像を探しながら読むという作業にとても時間がかかってしまったのです。ある意味、この有名な本をほんとうに読めるようになったのは、インターネット検索とデジタル画像アーカイブが発達した、ここ数年のことなのかもしれません。この本は1950年代に書かれた古典的名著ですが、この本に参照されている作品をすべて思い描きながら読めたひとは、最近まで誰もいなかったはずです。
この本がどれほど衝撃的な本かは、ぜひ自分で読んで確かめていただければと思います。読書会の最終回では、全章の内容をざっくり振り返りました。このビデオはそのときの映像です(リモート開催でした)。この本を自分で読む方がいましたら、簡単なガイドとして参考にしていただけると嬉しいです。
歴史的な本を読むのには少しコツが必要
この本に限らずどの本でも同じですが、本を読むセンスが少し必要な場合があると思います。トラップを避けるセンスですね。この本の場合は「男の目線だけで書かれている」という問題をどう考えるかということかと思います。
少し読み進めていくと、たしかに男性の視点からのみ書かれていて、女性の感受性について言及されることがほとんどないことに気が付きます。これは現代の私たちから見ると少し異様な感じがします。
しかし読んでいる途中でこの批判にだけとらわれると、この本そのものを理解できなくなります。ケネス・クラークのもっとも重要な主張は、現代のフェミニズムの問題とは全く別のところにあります。それを読み取れなくなってしまいます。
そもそもこの本、1950年代に書かれた本です。まだアメリカでは、白人と黒人はバスの中で別の席に座らなければいけなかった時代です。人種差別、性差別の状況は、現代と全く異なる時代だったのです。時代が変わるに従って、様々な問題意識は変化します。現代の問題意識とそぐわないからと、昔の本をそこだけとりあげて批判することは、短絡的であまりセンスのよくない読み方だと、私は思います。
もちろん、ケネス・クラークが思い及ばなかった問題について考えることは大切です。女性芸術家の存在や、女性の感受性から見た美術史が研究されることはとても重要なことです。しかし繰り返しますが、そのことと、ケネス・クラークが主張したことの重要性はほとんど関係がありません。その意味では、この本を読むには歴史資料を読んでいるという意識が少し必要なのかもしれませんね。
ともあれ、非常に刺激的で面白い本です。少し大きな本ですが、読む価値はあります。ぜひ楽しい読書を!