出展作家18名、作品数132点と、内容も規模もこれまでで最も充実した写真展「東京オルタナ写真部 #5」。ご覧いただいたみなさん、ありがとうございました。
これだけのレベルの高い作品はきちんとした批評がなくてはならないと、前回から作品講評を始めました。これまでは関係者だけで共有していた作品講評ですが、今回は期間限定で特別に公開します!
※各作家の各評は公開を終了しました。
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グループ展 東京オルタナ写真部 #5 作品講評
総評1:作品を見てもらいたいのだろうか
今回、出展者との会話で何度か「自分はほんとうに作品を人に見てもらいたいのだろうか」という話題が上った。作品を発表する場で、人に見てもらいたいのかどうかを悩むというのは妙に思えるが、実は大事な論点を含んでいる。
作品を制作することは自己承認ゲームだ。誰もが自分を認めてもらいたくて作品を制作し人に見せる。だがこのゲームは歴史的な時間と広がりを持つゲームだということを忘れないようにしよう。いまの「写真(業)界」は、歴史の薄い切断面のさらにそのごく一部にすぎない。もしそこで承認ゲームを競うことに意味を見い出せなければ、そこからは距離をおき、歴史を自分の目で観察することをおすすめする。かつて生きた人々と対話することは、制作に新しい意味を与えて閉塞を抜けるきっかけになるだろう。
東京オルタナ写真部はこのような意味においても、オルタナティブな場としてありたいと思う。今回の出展作品と、作家のみなさんとの対話から教えられたことは、私たちは閉鎖せずオープンでありながら、もうひとつの価値の場として成長していくべきだということだった。
「私は作品を人に見てもらいたい。しかし誰にでも見てもらいたいとは思わない。」という態度は否定されるべきではない。少なくとも私たちはそのような態度を認めるところから始めたいと思う。
総評2:「手に負えないもの」と「飼いならされたもの」
どちらもロラン・バルトの用語だが、これらの概念は作品が持つ「切実さ」に関わってくる。
「手に負えないもの」とは、私の人生を私だけのものしているもののこと。究極的には「やがて私自身が死ぬこと」がある。「飼いならされたもの」は不安を覆い隠すために一般化されたもののこと。雑誌に載っている広告写真などがそれにあたる。
作品を額装するなどして展示できる状態にすることは、ある面において「飼いならされたもの」にする行為だ。そのこと自体は特に問題ではない。私たちは写真とビジュアル・アートの歴史をひとりで再発明することなどできないからだ。ただし、自分が何をやっているのかについては自覚的でないと、「飼いならす」ことで「手に負えないもの」を自分で殺してしまうことになる。
作品の切実さをどのように扱うかは、制作そのものと同じくらいに重要なことだ。これについては以下の各評の中で詳しく見ていきたい。
各評
※各評の公開は終了しました。
総評3:「唯一の存在を扱うあり得ない科学」
今回も、出展作品の募集のメールに「この作品があることでこの世界が少し良くなる」と思えるように、ということを書いた。作品制作をするときに歴史的な時間を少し感じてもらえればというつもりだった。私たちが作品を見たり制作する時、私たちはビジュアルアートの長い歴史の中でそれを体験している。そして自作を作り、展示する時、それはこの歴史のもっとも新しい部分になり得る。私たちが作る作品は、歴史上もっとも新しい。そして願わくは、ほんの少し、この世界が前よりも良くなるものであってほしいと思う。
ということまでは、前回の講評の総評で書いた。しかしそんな頭がお花畑のようなことを言って、実際にはどうするのか。ロラン・バルトの「手に負えないもの」という概念はそのヒントになるように思う。
私たちは作品を制作し、それが人に見られ評価を受けることを望む。しかし評価可能なものになるということは、私たちが自作に求めた「手の負えないもの」を明け渡すことでもある。しかしこの矛盾を超えることができるものもまた芸術ではないだろうか。科学は一般化できるものしか記述できない。私だけのもの、唯一の存在を扱う科学はあり得ないものだ。だがそのあり得ないものこそを芸術は目がけるべきだろう。今回の出展作品の一部の作品にその可能性を感じることができた。さらに「本当に作品を人に見てもらいたいのだろうか」という参加者の疑問にも深い示唆を受けた。
「手に負えないもの」を明け渡さないままで普遍性を目指す。それが実現できたとき、その作品は人間の有り様を照らす新しい光源になるだろう。東京オルタナ写真部は常にそのような試みに開かれている場所でありたいと思う。